猛省するシーズン

菱の葉が重なって繁茂する湖水から、均整の取れた素晴らしい体躯の魚が勢いよく飛び出してきた。熱い夏に弧を描いて応えた釣り竿は抗う魚に追従し、顎をがっちり捕らえた大きなルアーが魚を離さない。水生植物の群生を境にした陸上と水中との力のやり取りは他に類を見ず、魚を掛けてから畦に取り込み再び湖水へと戻すまでとても短いのだが、この充実は何ならむ。

さて満足したにも関わらず、釣果を自らの腕前であると誤れば、それが欲を掻かせた。藪の奥へと進んだ先で目にしたのは、合唱中のウシガエルをそのまま一飲みにした大変な魚だった。

岸際に生えていた幼木がいつしか枝を大きく伸ばしており、釣り座は奪われていた。右往左往するも、菱の葉の隙間より未だ魚影がのぞいているのだから焦った。枝を踏みつけ、次第には木をなぎ倒すようにして、湖水に釣り竿を振り込んだ。

すぐに狼藉だったと気づいて足を戻したが、折れた枝木は元通りにならなかった。

本流から逃れてきたのは、私も一緒だった。古木が枝垂れる支流の古い堰はブロックが壊れ、その影の中に淀みを生んでいた。なかなか結果が出ないことを言い訳にして、短い竿に持ち替えた。

淀みに毛鉤を送り込むと、影の中で銀鱗が翻った。ぶるぶるっと背中を震わせた魚は、おおレインボーか!飛ぶか——?大ジャンプに備えるも、魚はそのまま一気に走り出した。体高のある山女魚だった。

なんとか古木をかわして追従するも、山女魚は古い堰の複雑な流れを縦横無尽に走り回った。びゅんびゅん啼いて張り詰めた釣り糸に責め立てられて、私はやはり本流の強い流れの中で相対するべきだった。

渓流マンは紅葉の渓を知らないとは、誰の話だったか。すでに雪を頂いた霊峰と色づいた紅葉樹を流れ下る川に違和感を覚えながらも、遊漁の延長河川であるキャッチ&リリース区間で竿を出していた。

そもそも週末のキャンプに友人を誘い出すための口実に過ぎなかったのだが、まさかの釣れ過ぎにつき、辟易としてしまった。ルアーはすでに見切られているようだったが、多くのフライマンは無限に釣れてくる淵を釣り座にして動こうともしない。それでも釣れてくる虹鱒は傷のない個体が多いのだから、まったく魚を放し過ぎではないか。

改めて、釣れないから釣りは面白いのだと思う。無論、釣れなくても面白い。ひいては釣れないから釣れるのだと、禅問答のように展開する。

先達より学んできたことは、釣り人は自然に対して「暴漢」であると、常に自覚していなければならないということではなかったか。

湖面を覆う木陰に小魚が群れ、それが連綿と大魚に繋がっていくことを忘れては、まるで季節を巡るようにすべての営みが円となるのを理解できまい。その中にどのようにして入るかを考えること、すなわち矛盾に挑むことが釣り人唯一の方法であり、だからフィールドを限定し、堅牢な道具を用いて、確固たる信念の裡に相対することで謙虚になれるのだ。

今季は猛省するシーズンとなった。