爽やかなる二十年

「爽やか」は秋の季語であるとラジオから聞こえてきて、歳時記の秋巻を捲る。——大気が澄み、万物が晴れやかにはっきり見え、心身もさっぱりする。秋の清々しさを爽やかという。確かに秋晴れは一段高く澄み渡り、秋の山の黄葉が色いっぱいに爽やかな秋の空を描いていた

そんな秋の声が聞こえてくると、まったく予約が取れなくなる人気の温泉ホテル、栗駒山荘に一室だけ空きが出ていた。

国定公園の栗駒山中から強酸性の温泉が湯滝となって流れ落ち、湯の川が形成される須川温泉は酸ヶ湯、八幡平の温泉とともに「この温泉に入らずして死ねるか」東北の名湯。その素晴らしさを改めてまた、ため息が秋の渓を這う落葉のように流れてゆく。

強い酸味の薄い白濁湯が清く肌全体にピリリと染みこむも、不思議と刺激はそれほど強くない。芳しい湯の香りが離してくれずにいよいよ火照ってしまいそうだが、露天風呂から望む鳥海山の遠景もまた名残惜しい。喧噪を遠ざける高原のホスピタリティも手伝って、やはり人は名湯かどうかの判断を五感全体でつかんでいる。

山粧う栗駒山のそれは「神の絨毯」とも称されるが、一週間ほど遅かったか。それとも前日まで飯豊連峰に登っていたからだろうか。琴線に触れるような紅葉狩りとはならなかったが、晴れ渡る秋の山はこの上なく爽やかだった。

 

三大霊場の川原毛地獄で噴煙を見上げて思い出し、秋田を離れる前に泥湯温泉に立ち寄った。泥湯はおよそ二十年ぶりになる。全焼してしまう前の奥山旅館に設けられていた、冬期間恒例の「三泊六食一万円」湯治プランが懐かしい。かつてともに旅した友人は二人の子供の父親となり、昇進して、今度はタコマが納車になったとの近況を聞いていた。

懐かしい温泉に浸かる。変わらず大地の恩恵をそのままを満たした湯の中で、すでに傾きだしていた日に気づいていた。「釣瓶落とし」は秋の日の暮れやすいこと、秋の入日が一気に落ちていく様子だと歳時記にあった。西に向かって行くのも、あっという間に過ぎ去るのもまさに人生のように思える。だが、どういうわけかこの温泉も、それに身を浸した過去、そして秋日の私もまったく変わっていないのだ。

 

身体的な衰えはあるが、少しは知恵も付いただろう。けれども今宵は鳴子温泉郷の中山平温泉へ下って行くというのだから、それはもう爽やかなほどに変わらない。