絵画の世界だとしても

待てば海路の日和あり——。近づく台風よりも感染症の状況を見定めて、北アルプスの長い遊行を上高地から決行。徳沢から登山道に入ると賑わいが嘘のように消えたのは、この急斜面のせいだろうか。尾根に取り付いても眺望のない樹林帯が静かに永く繁茂し、深い山域に迷い込んだことを早くも後悔させていた

息を切らして蝶ヶ岳を登りきると槍穂高の展望が開けた。浸食されて青銅色に鈍る岩峰群は日本を代表するアルプスの高峰らしく、一際険しく、何より雄々しい。それを取り囲む常念山脈はしばらく画廊となって優雅に鑑賞させてくれたが、たおやかに見えていた主峰常念岳のあまりの巨大さ、積み上げられた巨岩のいびつさに制された。続く山脈の最高峰に刺した大天井岳と端正で色白な燕岳が優しく譲歩を迫ってきたのは、観念の他になかった。

どういう理由で、私の純粋は山中で培養されてゆくのだろうか。苦しい坂道を登る最中にどうして洗われ、浄化される意識があるのか。相対する考えに怒りを覚えた強い自己が、なにゆえこんなにも弱いのかを知りたかった。狭窄した自己をまざまざと見せられる仕組みを私は独り、考えて登る。

 

「生ぜしもひとりなり、死するも独りなり」

詩人の伊藤比呂美の著書にあった、一遍上人の言葉を山頂の空に浮かばせた。

 

かかわるのやめて 一切を捨てて ひとりに

ひとりきりに なりはてることが 「死ぬ」ということだ。

生まれたときも ひとり。

死ぬときも ひとり。

人と住むということも、また ひとり。

添いとげなければならぬ人などいないのだ。

 

真理を追求し、家族をも捨ててしまった一遍の言葉が、容赦ないほどの生命感を持った美しい詩となり、私を揺さぶってくる。

初秋と言えど、稜線のテント場を吹き抜けた日暮れの風が冷たくて、月の射光に暖められるまでずっと体は震えていた。

芯から冷え切ると自らを巡る血液の熱さに気づくように、独りが向き合わせていた対話の相手を認識する。欠片のように小さい自己だったが、それを忘れ捨てようとするのは、求めるためではなかった。そうか仕組みは簡単で、ここまで培養されてきたその純粋が、今この中でひとりの生命に共鳴しているだけなのだ。

 

登り直してきた後立山連峰に雲が湧き立つ。振り返ると今度は浄土山、雄山、別山からなる立山三山と剱岳の荘厳な針山が居並んでいた。

迷い込んだのがたとえ絵画の中の世界だとしても、雲は散り霧は消えてゆくだろう。紅葉はもう始まっていたのだから。