一本の境地へ

朝刊の投稿欄に寄せられた、若者の気づきに驚かされることがとても多い。トイレ掃除の手伝いを欠かさないという彼だったが、長年その理由を見出せずにいた。親や来客にトイレがきれいだと褒められるが、小遣いを貰えるわけでもなく特別なメリットはない。そもそも汚い場所であるからして掃除などしたくないのだが、彼はそれでもトイレ掃除を続けてきた。そして、ついにその応えを見つけたという。

「きれいだと気持ちがいい」のだと。これはもう完全なる悟りの境地ではないか——。

自らを境界に立たせるべく、自転車を担いで輪行釣り旅に出た。一本の魚を遠い存在に置くことで、その貴重さを再認識し感動を取り戻す。一切知らない一本の河川に対象を絞り、鉄路を乗り継いで一本の釣り竿を川面に映した。

梅雨明け直後の七月だったが、すでに酷暑は始まっており、穀倉地帯である平野部に降り注ぐ日差しの強さに閉口させられた。今回はキャンプではなく温泉旅館に投宿したのだが、この選択に救われた。十年、十五年前は「暑ければ、暑いほど好釣果」とする地方も多くあったが、今や日本全国に異常の夏日が照りつける。

河川の選定は適当で、堰の影響なく本流と接続することができる河川ならば、魚の生息はゼロではないと根拠はそれだけだった。派生する用水路も好ポイントとして考えていたのだが、実際フィールドに降り立ってみると、三面コンクリートの水路は緩流を許さない形状になっており、常に用水を流し下していた。言わずもがな、土砂が堆積しない水底に植物は根を下ろさない。田畑のみに機能する人工的な水流は堰の後で鯉鮒、上ってきた鯔を一時癒やすにとどまっていた。

 

こうなるとポイントはプアで、それ故いつの間にか、魚自体を視覚で探すことに捕らわれていた。サイトフィッシングと書けば格好もつくが、血眼になって獲物を探すその様は、遊びに興じる「ゆとり」を欠く。大体、見つけたところで、自転車から降りて竿を繋いで釣り糸を通す間に、もう魚の姿はないではないか。

もう一度、一本の河川と向き合った。護岸の上の植物が垂れ、水面に触れるか否かハングしている。その隙間を狙い、スキッピングでフロッグルアーを滑り込ませると陰影の奥に届いた。閃光のごとく飛び出してきた鋭いアタックを合わせられなかったのは、珍しく決まった会心のキャスト——その余韻に浸っていたからだった。

あまりにくだらないミスに膝をついて消沈。すると目線を落とした先で、今度は沈水した植物に流下してきた草木が絡んでいるのが見えた。竿を寝かした状態でルアーを引きずると、草木の上にスプラッシュを伴った甘いポップ音と飛沫が落ちた。誘い文句のような軽音はどうして魚の興味を引くのだろうと、自ら酔ってしまった隙にルアーが消えていても遅きに失する。

肝心なところが抜け落ちていたとしても、遊びの中にあることだ。それよりも、プアであればあるほどポイントは見つけやすいことに気づいた。試すことが多ければ、工夫もまた同じである。そうか、だから面白い。

 

日が高くなると、貧果はさらに大量消費する水分に見合わなくなった。それでも釣果に執着するような、私はそんなにつまらない男ではないと息巻いた。ともかく暑かった。

山寺は文化財で近くには名瀑もあると聞けば、すぐに竿を畳めた。目指す山麓まで距離はあったが、森の遮光や滝の涼を求めて漕いだペダルは軽快だった。が、山に続くのだから次第に道は坂となる。ついには鈍重のペダルに吹き出した汗が滝となって流れ落ちる始末。馬鹿なのか、私は。

自転車を降りて信仰の息づく山を仰ぎ見れば、なるほど名山で、その怪しい山道へ誘われてみることにした。どこまでも緩い登りが続く優しい登山道かと思いきや、一向に標高を稼ぐことができないロングコースだった。どうして魚から遠ざかってゆくも、楽しみは一つではなかった。結局、長い時間をかけて登ってきた。

山頂から眼下に広がる緑の穀倉地帯を望むと、一本の河川の全容が見えた。