真砂の坂道を歩いて

ごっそり残していたのが南アルプスの山々だった。手始めに、比較的穏やかな山容の鳳凰三山を芦安温泉郷から縦走し、名湯奈良田温泉、そして甲州の西山温泉を目指した。

緩い勾配の峠道はとても静かな緑の中にあって、疲労させるどころか体を軽くさせた。時折いたずらな小粒を当てられたが、露に濡れた森はさらにしっとり静寂をまとって誘い込む。土が水を浄化するように、森の木々もまた人の憂いを清らかにするのは間違いない。

人それぞれに多様な自然観を持つだろうが、万法のすべてを飲み込むのが自然のこと。山にきて、飲み込まれれば、心身この上なく穏やかで軽やかに。だから今は清浄に受け容れられるような気がする。やはり人間も自然の一部だということを深く改めるばかりだった。

稜線で迎えた朝に白峰三山が明けてきた。次に登る北岳、間ノ岳、農鳥岳。少し北には仙丈ヶ岳が気品高く、まるで知性を備えたかのような甲斐駒ヶ岳は一際鋭敏にそびえていた。そして、振り返れば富士の剣ヶ峰——。わざわざ雲海を突き出て釣り人を見舞うというのだから、岳人でなくとも心は踊るだろう。

まさに目の前で、三千米を超える高峰が文字通り林立する南アルプスのスケールに、言葉をなくしたと書いておきながら、実際は漏らしていた。いや、上げてしまっていた。

 

真砂の坂道を歩いて、鳳凰三山を繋いでゆく。薬師岳、観音岳、地蔵岳からなる三山はそれぞれに菩薩の名を拝する。織りなす三山の自然景観はとても宗教的でその名にふさわしい。

畏怖、畏敬を忘れただけなのか、それとも克服したつもりなのか。いつしか超越した存在であると虚空の中で空回りした人間がこの大山塊を掘り起こし、果てしなく清らかな水脈を動かすというのは天を仰いで唾するのと同じこと。到底受け容れられることではないのだ。

たとえば山を観ては先人に倣い、当たり前にあった信仰心を取り戻すべきだろう。

もっと小さくあるべきではないだろうか。

 

黄色い湯の花が舞う西山温泉は今も湯治場風情が息づく混浴。まさか若い女性がタオル一枚腰に巻いて入ってくるとは・・・・・・浴槽の中でとにかく小さくなってやり過ごしました