教養の流れに

「涵之如海 養之如春」これをひたす海のごとき、教養を養えと揮毫したのは會津八一。その隣に展示されていた同人の書「北冥有魚」は荘子だねと、若い頃に分からなかったことが今は分かる。

今年もまたコロナ禍にあって湯田川温泉の孟宗料理を食べ損ねたが、代わりに訪れた鯉料理店でクマガイ草が自生していると庭(ほぼ裏山)に案内された。石碑は明治の三筆によるものだと説明を受けたが、——まったく分からなかったじゃない。

狂言『柑子(こうじ)』がテレビで放送されていた。「好事門を出でず」から始まり、平家物語の俊寛僧都、そして六波羅に収めましたという、この曲のオチを理解するにも教養が必要。料理に酒、器にしつらいだけでなく、庭の草木までの知識を求められるのを面白いと思うか否か。クマガイ草の由来もまたアツモリ草と同じく、平家物語なんだとか(なんと、熊谷次郎直実だったか!)

源流域と言えど踏み跡だらけなのはきっと、釣り人の気概を持たぬ、にわか山人が下品な竿を持ち出したからだろう。木曽の山猿、源義仲の狼藉と言わんばかりの無教養に比べて、笛の名手であった平敦盛や「詠み人知らず」の薩摩守忠度には、やはり公達としての品格が伴う。悠久の大河を泳ぎ切る鱒族へ敬意を払い、タイドアップして川面に立ったという、かつての英国紳士(フィッシャーマン)のそれも同じではないか。

人の多い南の上流部を避け、後塵を拝することのない北の下流部に挑むも、そこがまるで冥界であるかのように魚信を遠ざけられた。新調した釣り竿だったが、バットは太くてもその長さは15フィートに足らず、それよりも長く釣り糸を取ったが、端に結ばれたのは小さな虫を模した毛鉤で、1インチにも満たない。はるか対岸の人煙はどれだけ目を凝らせば見えてくるのか——、今も流れを太らせて下す本流の中で、教養以前に頭がおかしいのではと曇らせていった。

傾き、そして没しようとする一日を観想せざるを得ない。僅かに流れを絞らせた地形に川底の深さを想像していたが、魚信は変わらず皆無でその影も覗かせない。だが、信じる他なかった。及ばないことを知るのも教養の一つであると授かれば魚が有。今の今まで何もなかった世界が突如、大鵬となって飛び立った。

へなへなと膝をついて平らな河原に降り立った私をひたしたのは、無人の、どうして釣れないが、確かに海へと通じる流れであった。