自由が湧いてあふれる湯

「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ」

行乞記にそう残した通り、漂泊の俳人、種田山頭火は旅と酒と温泉を愛した。季語もなければ五七五の韻律にもとらわれないのが山頭火の自由律俳句だが、その自由は憧れて真似できるような「自由」にあらず。恐ろしく不安定な本物の自由なのだから、やはり酒もぶっ壊れるほどに飲んだという。

今朝の新聞コラムは詩人、中原中也を取り上げていたが、中也のそれもやはり真似できるようなことではなかった。「人のやうに虚勢を張れません。そこで僕は底の底まで落ちて、神を掴むのです」

名湯に熱湯なしとはよく言ったもので、効能豊かな温泉はぬる湯や不感温度の湯に多い。今もなお秘境である信越境の秋山郷に湧く逆巻温泉もまた、ラジウムを含んだぬる湯の自噴泉が湯船を満たす。郷は目に青葉、渓を流れる水音は轟なれど穏やかに心に響く。そして、泉源のすぐ脇に設えられた洞窟のような風呂に心身を浸せば、まるで瞑想の中の自由に等しい。

ただ、何もない時間を何もなく流し下してゆくのが自由なのかと考え始めると、眠れなくなった。枕元で小さく点したラジオ深夜便だったが、寄せられた投稿があまりにも切なくて、眠れないどころか涙してしまう始末。十年前、何も言わずに出て行った息子に呼びかける母の言葉と悔恨が、残された者の辛さをありありと伝える。出て行く者の自由は清々と、しかし残された者の思いはどうなるのか。それを考えないのは非道ではないか——。

山頭火にも母を詠んだ句があるのだろうかと調べてみるも、実母は父の放蕩を苦にして井戸に投身自殺・・・・・・。まさに波瀾万丈を乗り越えての自らに由る。神を掴んだ詩人も漂泊の俳人も、愚かだと知りながら本物の自由を生きた。だから、生き生きと描けたのだ。

 

ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯

裸になって浮かべてみれば、混浴で憩うに地位も男女の区別もない。何の嫌味も恥もない、大らかな自由が楽しくそこにある——。

少しだけ熱くなった胸の火照りを、ぬる湯が再び調えた。ぶっ壊れるほど酒を飲めない。本物の自由を謳歌する度胸もない。だけれども、他者の気持ちを考えることならどうだろう。