宇宙の杉玉

陽気に誘われて、つい浮かれ気分で地図を広げてみましたが、何も変わらないこの状況をどう受け取るべきなのか。展示があまり変わらない美術展を通い詰めたり、どうして鬼平犯科帳のテーマ曲だけを繰り返し聴いている、そんな謎の日々でしたが、今一度問いを深めています

郷里を離れた旧友(そう言うと青春期のように瑞々しいですが)から、時折寄せられる話題がすこぶる懐かしいことばかりで、思い出しては笑ってしまうも、同時に寂寥感を覚えました。懐かしい日々を見ている向こう側にどんなことがあるのか、それは分かりません。頃合いよく言葉をかけたりできれば良いのかもしれませんが、どうも過剰なまでに慮ってしまい、連絡をするのがとても苦手で。だから役に立ちません。

禅の世界感を著した「十牛図」の最後がずっと難解でした。

ほんとうの自己を牛になぞらえて、それを探して見つけて捕らえて自分のものにする。そのものさえ忘れて一つになることができれば、すべて消え去り、この世の道理だけが色鮮やかに見えてくる。しかし、そこで十牛図は終わりではなく、最後にはまた人が現れて、他者と会話をしている様子が描かれています。

このときの会話に用いられているのが、言葉ではなく真実の語であるというのです。言葉にはできない語——?難解を引きずってきましたが、美術館でふと気付きました。ああそういうことか!

絵画を観るに言葉は要らないように、あるいは言葉たり得ないことが絵画となるように。

肝胆相照らした瑞々しい頃よりも、今は言葉がなくても強く繋がれているように感じています。

栄転するはずだったのに未だ同区内に居住している旧友が、一升瓶や酒の肴とかではなく、手製の杉玉(酒林)をぶら下げて訪ねてくれました。——栄転詐欺だ!贈った祝いを返せ!と揶揄する私に突き出されたその杉玉でしたが、これが見事にまるく、また青々とまるい。一度は絶句しながらも、即座に感じたインスピレーションが呵々大笑となりました。

「今年もお酒ができました」

玄関に吊していると、これはなんだと問うてきた母親に、造り酒屋が軒先に吊す酒林であると応えます。では、うちは一体何ができたんだと、さらに問われて窮しました。ついには二人して玄関で唸りながら考え出すも、宇宙空間に浮かぶ青い球体が問いそのものを飲み込み、跡形も無く消していきました。

どこへ行かずとも誰彼に会えずとも、すでに私たちは宇宙と繋がっている。言葉なく、杉玉が語っているようでした。