同じ目線で観なければ

有為転変は世の習い、というよりは変わりゆくのが当然で、自然はつねに変化し続けている。まるであふれ出てくるような野生動物との接触事故が頻発する昨今。それは不作年だからという問題ではなく、不作の年だから「森を出て、人間社会での活動を活発化」させていることが問題なのだ

写真家を特集した日曜美術館の再放送を観て、図書館に走った。宮崎学の写真ルポルタージュ【イマドキの野生動物】は、人間なんて怖くないのだという、野生動物の実態をまざまざと見せつける。森林伐採で山野を侵したかつての時代は過ぎ去り、過疎による里山の消滅で森は藪化して再生。勢力を盛り返した野生動物に、もはや人間は取り囲まれている——。

驚異を恐怖に感じさせるとともに、人間による環境変化を強いられても順応して命を繋ぐ、たくましい野生の姿が写されていた。現状の問題を克服するために、今私たちが再考しなければならないことは何か。

分け入った途端に監視されているのではないか。野生動物のその顔が決して穏やかではないことに気付く

奥日光のテント場で、夜半にテントを叩くシカに起こされたことがあった。何度も追い払ったのだが、登山靴をかじられ、翌朝にはテントの外に放り出されていた。シカといえども、その傍若無人ぶりに驚かされた。シカの激増はもとより、天然記念物のカモシカでさえ今や珍しい動物ではない。地滑り防止のための植林までも食まれてしまうという。

融雪剤が大量にまかれる高架橋の下は、行列店のごとく野生動物で賑わう。イマドキの道路は塩味で美味しいと評判になっているかもしれない。越冬という難題を人間が見事に解決してくれただけでなく、牧場の家畜に与えられる健康維持のための飼料も排泄物となってシカになめられ、結果的に健康食品まで取り込まれている。

フクロウは本来、樹洞という樹木に空いた穴で営巣するが、砂防堰堤の水抜き穴を利用することがあるらしい。しかし、厚いコンクリートが抱卵熱を奪ってしまい、繁殖率は良くないようだ。伐採後に植林されたところで、樹木に樹洞が発生するには相当な時間を要する。環境変化に順応するための行動は、常に過酷を伴う。

そもそも、田んぼで落穂をついばむ白鳥のことは、意識的な餌付けと本質は変わらない。それが良い悪いというのではなく、農地開拓は環境破壊の始まりであり、野生動物を呼び込む要因でもあるということを再認識する必要がある。「人間の所有物」として自然を捉えるから問題が発生し、自然淘汰されない非循環の関係を築いてしまう。共生は遠のいて行くばかりだ。

乗鞍岳に拓かれた車道は動物のバイパス路ともなる。白昼堂々と車道を横切るその態度と図体に怯むのはどちらだろう

現代人は大きな勘違いをしているように思えてならないと、著者は警鐘を鳴らす。

野生動物の現状を把握し、緊張関係を取り戻すべきであって、花鳥風月的に愛でる自然観をなくせ。美化された架空の自然観は、あやまった保護意識を生むのだと語気を強める。

確かにその浅薄は渓流魚の放流事業と同じく(もっとも、サケマス類の放流は産業による事業がほとんどだが)、結果的に生態系を攪乱し、種と自然環境を荒廃させていく大きな要因となりかねない。一つの太陽を借りて、同じ地球に住まう「同居人」とは、森羅万象のすべてを指し示す。そうでなければ共生はおろか、崩壊すら免れないのではないだろうか。

野生動物が美しいのは、人間社会も含めたすべての環境を受け入れ、その中で懸命に生き抜こうする生命力があふれ出ているからだ——。著者は動物の目線でその生態を写し撮る。同じ目線にならなければ見えてこない、そうでなくては何一つわからない。再考するための大きなヒントが、写真の中でこだましていた。

而今の山水は古仏の道現成なりと石木川のイラストカレンダーが語る。屈指の清流にして急流、川辺川の流れが再燃したダム開発に脅かされている。これもまた上から見ているばかりで、何も観ていないからのことである