利他とは何か

講演前に配られたレジュメを数頁開いて、そのまま膝元で閉じた。最澄、空海、道元などの仏教者の教えから王陽明の儒教にフランシスコ教皇の言葉まであり、一読にして目が回るも——。市民講座の講師は、今もっとも旬であると紹介された批評家の若松英輔氏。コロナ危機に直面した今、私たちのつながりが決して「利害」だけではなかったことに、気が付いているはずだと講師は続ける。

「利他とは何か」——、利己主義の反対にある利他。他を利するという、とても胸の奥を騒がせるこの言葉の真を、もっとも教えて欲しかった方に話していただけるとあって興奮気味だったが、集中して話を聞いた。

他を博く愛して、一切衆生自己との差別を見ずに非を制止し、善を発動す。自他と超えてはたらくものがあるという。そして、忘己利他。他を利するために自己を忘れなければならないというのは、どういうことだろうか。

一つの世界にはそもそも二つの世界が存在しているという、鈴木大拙の「霊性」を引用したが、それはいわゆる心霊現象や霊感といったオカルトとはまったく異なる。感性と知性の世界と霊性の世界の二つがあり、後者は感性的のそれに比すべくもないのだと。

確かに、ほんとうの感謝を得られたとき、それはいつでも意識的行動によるものではなかったと振り返る。突発的な行動に損得はなく、むしろ無意識に出た行動や言葉が誰かを助けたり、守ったりしているのではないか。それが「ほんとうの自分」であり、自己は意識よりも前に動いているというのだ。

自分以上のものが自分を通して動くとすれば、自分は無の状態、幾何学的点であるが、自分が主人公であるというところからすれば、絶対の矛盾が即非的に自己同一性を生きるということになります。

「絶対矛盾的自己同一」。ああ、そうだ。西田幾多郎の哲学は以前に先生の番組テキストで学びました。

ほんとうに苦しい人は、苦しいと言葉にもできず、一人で苦しんでいる。それは嘆きではなく「呻き」であると話は核心に迫る。その声なき声を聞き取るためには、自己の雑念を消して、心の耳を澄まさなければならない——。

齢を重ねると髪の毛は寂しくなり、近くのものは見えづらくなってきた。顕れる身体的な弱さを例に取れば、こんなにわかりやすいこともない。同じ目線で考えることができれば、分かち合うことができるではないか。弱さはちからになる。こんなにも簡単なことが、自己中心的につながる世界の中では見えなくなるのだから。

典型的なA型なので、書籍などにはあまり書き込みをしたくない質なのですが(古本にあったメモなどは丁寧に消します♪)、こんなご時世でなければ、サインや握手を求められたろうにと。