からくりは要らない

「あなたとは二度と仕事をしない」

静かに短く言い放ち、もうここで降ろしてくれと、駅から程近い河川敷で車を止めさせた男の顔は——、マスク越しにも、喜色満面としか言い表せないほどだった。社名が刺繍された上着はとうに脱ぎ捨てられており、筒型の長尺ケースが括り付けられたザックを背負っている。そう言えば最初から、男の足元は革靴などではなかった。

まるで交渉決裂を装うようにして、夕刻前に車を降りた男は、二三度振り返ってはその都度大きく手を振り、土手の階段を川側へと下りて行った。

コロナ禍でも無事に届いた99ドルの激安ウエーディングブーツを履いてきた

リモートワークの推進によるオフィスの縮小が、やはり本格的になりそうで、ここを起点に未来の在り方も変わるのだろう。そもそも虚妄の未来を描かせていたのは、荘子で言うところの「はねつるべ」。からくり事をする者は必ず、からくり心を巡らす者である。だからこの先、再就職などの機会があったとしても、私はそれに甘んじないのだという男の持論は友人たちをも絶句させたが、確かに、正直に生きるための選択であるとも思わせた。

夕暮れまでの僅かな時間にすべてをかけて、男は本流に臨んでいた。河川敷は駅に程近いと言っても、三四十分は歩かねばならず、しかもローカル線の時刻表は空白だらけで、一本を逃せば明日の出社すらかなわない。さらに午前中に降った雨が、さも男の足元をあざ笑うかのような急流を下していた。

たとえば車がないだけで、この場から逃れることもままならないのだ。からくりのない人間がどれほど無力であるかを痛感する。呆然と、悠久が集められるのを男は数える他なかったが、避けられない流れを覚悟したとき、どうして見えてくるものがある——。激しく交わる水波の向こうに浮かぶ、ただ一つのうたかたの中へと引きずり込まれた。鈍い重さの緊張が釣り糸を伝い、男に、そして魚にも伝わると大ジャンプ!——虹鱒だ!

水面を一点から突き破り、飛沫を天に上にと跳ね上げて、大きな風を巻き上げながら翔る高さは一メール、いや二メートル!四回目の大ジャンプで男はたまらず、うめき声を漏らしてしまった。

本流の山女魚は顔付きが精悍

足元を濡らした男の姿が車窓に映り込む。その顔はマスクに隠れてよく見えなかったが、心はずっと、ヘロヘロと腰を抜かして座り込んだ、川縁にあるようだった。

網の中に収まった、どこまでも強い魚も男と同じく、ゆっくりと鰓蓋に水を通し回復を図っている。精根尽きたが、それでも夕焼けに溶けた虹鱒の銀鱗といえば、確かに息を継ぎながら、力強く脈を打ち続けていたのである。

鉄路に揺られた明日はどこまでも正直で、まだ遠い。だが、男が本当にクビになる明日はそんなに遠くないようにも思えた。

 

地酒はどうにもいただけない