プラスチックフリーとアシガール

依然、閑散とした繁華街だったが、昼時に折詰弁当を販売して奮闘する店も少なくない。応援の気持ちだけでなくとも、老舗や名店の料理を安価で頂けるのだからこちらとしてもありがたい。喜んで購入しているそのうちに、気になることが出てきた。

休業中の貼り紙を出した老舗割烹の軒先で奮闘する店員の、髪の毛の色がすごいのだ。紫から銀に輝く七色に変色した長い髪は乱れるに乱れ、満面の無精ひげをさらして弁当を手渡した、その前歯が溶けている。ん、歯が見える?ああ、そうかマスクもしていなかった。なぜか「バーニング・スピリッツ・ツアー」の当日券を購入したあの日を懐古しながら、休業中の老舗割烹を思い返していた。なんかこう、職人も店員もパリっとしていたよな、絶対——

宣言の解除を受けた翌日から、その姿は忽然と消えていた。もはや藪の中のある真相だが、あの日よりも恐ろしいものを感じてならないのです・・・・・・。

テイクアウト、いいのだけれども「ゴミ」を出すのがなんとも嫌で。蓋付きの弁当容器に、要らないって言ってるのに渡される使い捨てスプーンやポリ袋。あれもプラこれもプラ、プラプラプラの使い捨て。そもそも特別なにもしていない生活なのに、なんでこんなにゴミが出る——?

ドラマ『アシガール』(吾妻連峰を縦走したときに宿泊した、白布温泉の民宿の爺さんが夕飯も作らずに熱中して観ていた)の再放送を観て、『こころの時代・セレクション』(マララ・ユスフザイ!)で心を震わせて、謎の虫をイミテートした謎の毛鉤を少しだけ巻いて、今季のショップオリジナルカラーのフロッグルアーを二個だけ準備した、たったそれだけの生活でも非常に多くのゴミを出してしまう。

すでにペットボトルを追いやり、再利用可能な分厚いプラスチック袋にも「自然の中に捨てるな。法律を守れ」と大きく書かれるのは、環境問題を先陣する欧州諸国ならではのこと。買い物のときには袋だけでなく、容器の持参が当たり前であるという。国だけでなく企業もまた死活問題と捉え、急速に変革していく中で、日本はその潮流に完全に乗り遅れている感が否めない。法は整い、素晴らしいリサイクル技術を持ったベンチャー企業が世界で注目を集めているにも関わらず、どうしてなのか気運を一向に感じさせてくれない。

干潟でのゴミ拾いを長く実践している、誇れる釣り人諸兄たちの感想を聞いて驚いたことがあった。干潟の砂に混じってキラキラと輝く小さなゴミがあるのだと。昨今、特に問題視されているマイクロプラスチックだ。どこか遠い海のことではなく身近な場所で輝き崩れ、もはや警鐘は微塵となっていた。細かくなればなるほどに回収はおろか、生態系の中に取り込まれてしまう人工の廃棄物。ナノレベルにまで小さくなると、いよいよ私たちの細胞へ忍び寄る。

ポリ袋の何が悪いの?微々たるものでしょ?せめて鯨の腹の中に入らないようすればいいんでしょうと、楽観的な無知が恐ろしい。ゴミとなり紫外線で劣化して、二酸化炭素よりも危険なメタンガスを大量に排出するのがポリエチレン。プラスチックの排出がアメリカに次ぐ日本は、もはやその国民性とでも言おうか。様々な企業や経済団体への忖度により、提言された環境保護への公約に調印することすらできないでいる。その事実に国民は大いに落胆し、そして本気で怒るべきだ。

異常気象にコロナ禍にと、しっぺ返しに喘ぐこんな世の中だからこそ、『心とからだを癒やす 四国遍路と温泉の旅』(石川理夫著)を読み直した。近く発心する意を固めるも、自炊テント泊での歩き遍路は「ゴミ問題」にぶち当たった。旅路の最後には、荷物よりも大きなゴミを担ぐ破目になると思うとさっそく萎えたが、どれだけゴミが出るのかではなく、どれだけゴミを減らせるかと問題を転換させることにした。そう、転換こそチャンスなのだ。

 

色々なことが急ぎ足で変わっていく今。便利の価値が一転すれば、都市部から離れて暮らしたとしても社会との繋がりを失わないことが明らかになった。環境の良い土地へと急ぐ人が多くなるだろう(どこへ移ってもアシガールの再放送は観られるからね)。私も理想の方丈庵へと急がねばなるまい。

(現在、九つの共同湯で熱い湯を掛け流す、福島の飯坂温泉が第一候補に挙がっております)