釣られる岩魚も久しからず

連休明けて、チラリ。距離を保ってマスク越しに、何だか久しぶりだねとチラリ。休み中に新調したカフスボタン、IWANAをチラつかせたのだが、アイツ——。今、絶対見たのに何も言わないだなんて!二度と仕事回さねぇぞ・・・・・・。

祇園精舎の鐘の声、——おごれる人も久しからず

今月の名著に『平家物語』が再放送。安田登氏の愉快な解説はもとより、謡い、じゃなくて能楽師である氏による朗読が琵琶の音と相まって、これがやっぱりシビれるほどに♪ 平家物語を本説とする曲目が多い能だから相性抜群にして、おごれる平家滅亡への物語をより深く味わえる必見の再放送かと。

五千円か・・・・・・やっぱり結構するなと思い切ったのに、五百円だった(しかも二匹で)

「謡う百科事典」であるという能の謡を学ぶことにより、花の名前を覚え、仏の教えを学び、万葉集に平家物語、源氏物語に伊勢物語まで、古今東西の古典の知識を身につけることができるという。現在もっとも学びたいこと(花の名前がとにかく覚えられない!)が能の謡の中に並んでいるだけでなく、ワキ方である氏いわく、源平の武将の亡霊と古典語を用いて、直接話すことができちゃうのだと(一応、亡霊はシテ方の能楽師が演じているのだが)。

「夢幻能」という能の典型は、いわれのある場所に旅の僧(ワキ)がたどりついたときに、どこからともなく縁のある者(前シテ)が現れて、往事を偲んで聞かせる。後に亡霊(後シテ)が僧の夢の中で弔いを乞う。過去から現在、そして未来へと順行していく生者の時間に対して、亡者のそれは過去へと遡るものだから、旅の僧が亡者と出会ったとき、時空にはズレが生じている。オカルトでなくホラーでもなく、「今は昔」で始まる亡者の語りからすでに、異界であるというのだ。此岸と彼岸を分けて亡霊を登場させるのが、ワキの役目であり能力であると、同氏は著書『異界を旅する能』で続ける。

すべての憂いを捨てて乞食の旅に出た僧、すなわちワキの「旅」とは、現代の自己発見の旅などとまるで異なるもので、今まで築き上げたのを捨て、自己を完全に無用のものと思い切った旅である。それは放浪よりは彷徨というべきなのか、絶対他力を求めて無力のままに、行く宛てもなく彷徨う旅。それでも卑下するのではなく、胸を張った無用で「俺は何者でもない。だから恥も何もない。何でも来い」ここまで思い切る旅ができて初めて、人は本当に生まれ変わることができるのだと。

つかんだ手を離さなければ、他に何もつかむことができないというように、捨てることで得たワキの特別な力とは、実は私たちも本来持ち合わせていた力なのではないか。

そう遠くない、かつての日本人は盆正月という特別な期間を特別なままで体感してきた。盆に先祖の霊を迎えることで穢れ(けがれ)を祓い、新たな年を迎える正月には魂を改めることができた。解放と回復がある年サイクルの中には、祭りや盆踊りなどの伝統的な年中行事もあり、それもきっと私たちが持つ霊性と大いに関係しているのだろう(だからオカルトじゃなくてね)。

能とは「異界と出会う物語」。出会うことで一変し、新たな生き方を見出すことができれば、それもまた解放と回復か。本来のサイクルをほとんど失った現代に、なるほど、だから能を観るのが面白いというわけか。その理由は知らずのうちに気付かされていた。改めて、能を知れば戻れなくなるという言葉を実感する。フフ、気付いちゃってたよ、俺。

 

——おごれる人も久しからず!

地球温暖化により越冬する生物、それに伴い細菌や病原体の蔓延というのは、随分前から懸念されてきたこと。滅亡への物語が「今」語ることを、奢ることなく真摯に聞き止めなければなりません。

それにしても、その形状からなのか。色々なところに引っかかっては無駄に釣られていきます、IWANA——。