距離を取っています

風が桜を散らすのか、それとも自ら散りゆくのか——。有為転変は世の習いだとしても、まさか誰にも見送られずに春が終わろうとしているとは。少し感傷的に桜吹雪を見上げると、ん?いたずらなのはヒバリか、それともスズメの兄弟か。声を弾ませ睦まじく、枝をガンガン揺らして花を散らしていた。あぁ!やめてけれ・・・・・・。

部屋に飾る絵を掛け替えたくらいで、ラジオを聞きながら本や新聞を読んだりと、若干ゴミのような生活を実践中。「生まれてきてゴメン」と一応は申し訳なく思い、せめて夜のお酒は控えようと。それでも意外とこの生活、いとをかし。案外根暗だったという自己の再発見もさることながら、旅行の楽しみは計画そのものであるように、次の季節へ想像を膨らませるのはおもしろきこと。

何でも可視化され、目で見ることができる便利な世の中だが、例えば資料をスクリーンに映し出さないと、話もろくに出来ない、聞けないというのでは想像力に欠けている。それさえあれば自分の中で無限に楽しめる力は、きっと危機をも乗り越えられる最大の力なのに・・・・・・。なんだか禅問答みたいなことを言い出したが、とりわけ現代人は映像、視覚、見えることに、もはや毒されているのではないか。

女優の小芝風花から時折発せられる、関西弁が可愛らしいから、ラジオ「おしゃべりな古典教室」を聞いているのではない。世阿弥は風姿花伝や花鏡で、「目前心後」と「離見の見」という客観的な視点を持つことの大切さを説いた。見えないはずの自分の姿も、想像により客観視することができると。

サケ

古典はいつの世でも一番新しい!と「田辺聖子の古典まんだら」が断言する。確かに、「宇治拾遺物語」の項で取り上げられた「藤大納言忠家もの言ふ女の放屁の事」は、何度読んでも斬新だ。色好みの女房のもとを訪ねた藤原忠家が、御簾の向こうから覗かせた女の黒髪にもう耐えかねて肩を抱き寄せ迫る。「あら、とんでもありませんわ」と女が身をよじった拍子に放屁の音が——。

「何もかもおしまいだ」

どうしてそうなるのか、忠家は「——出家しよう」と、そのまま夜の闇へ走り出してしまう。(後に思いとどまるが)どんだけ絶望するんだと腹を抱えてしまう。

数百年も前に書かれた物語が今も色あせることなく面白く、ときに哀しくも共感させるということは、いつの世も人間の本質はまったく変わらないのだと。そう古典に教えられると、どうして気楽にもなれるから不思議だ。

桜の花もすべて散ってしまえば、幾らか気楽かな(まぁ、朝起きたときから気楽ですが)。よるドラ「いいね!光源氏くん」を観て、また寝ることにします。いやぁー最高だね、平安貴族!

(なんか、すみません——)