はやり風邪などひがねよに

渡したかったものや聞いておきたかったことがあった。だから、少し無理をしてでも連れ立って行きたかったのだが、旅先への配慮も問われる難しいご時世にて、切符を払い戻してきた。送り出す方にも出される方にも、未練のようなものが残った(と思う)。

明日をも知れぬ現代を生き延びることができたとしたら、次の二十年はとくに大切な二十年になる。何ができるかを知る四十は惑わずだが、可能性を区切らずにどこまでできるか。どこまで登れるか、そして天命を知ることができるか否か。もちろん、社会的地位がどうのとか、そんなことではありません。

しばらく転地を繰り返すことになるだろうけれど、時々に相対する「道」そのものを受け容れて行けば、虚とは、打ちひしがれるような思いを優に越え、無限の成長を連れてくるという。水差しが役に立つのは、その形や材質によるのではなく、水を容れるからっぽの空間によるのだと。

山形の酒、秀——ではなく、中身は神亀の凡愚。愚かであることに気付けていれば、人は未完成のままでいられる。永久の未完成これ完成であるとは、自らで作り上げて行くその可能性を指している

さて、ぽっかり穴の空いた休日。魚釣りには時期尚早で、残雪期の山へ向かう気力もない。ならば、いわゆる「積ん読」の本を抱えて湯治場へ——だから、そういう訳にはいかないからもどかしい。

巣ごもり前に中古レコードを購入した。ワンコインで三、四枚は買える民謡と謡曲のレコード。初代浜田喜一に鈴木正夫とくれば、市丸のちゃっきり節が収録されたような、ありがちな民謡ベスト盤が大半を占めたが、それでもたくさんレコードを買えるのって、やっぱり楽しい。

しかし、たまに覗きに行く程度だが、近隣の中古レコード店には不思議と大量に民謡の入荷がある。誰かがまとめて売却しているのか、それとも仕入れているのか?(投げ売りするために?)まさか、ねぇ——

「民謡、まだあるよ」店主がレジで眼鏡の縁を光らせた。やっぱりアンタか!

 

様々な音が同時に響き合い和音を生み出す西洋音楽と異なり、音を混ぜずに時間の流れと抑揚の中で和音を生み出すとされる日本の音楽。虫の鳴き声を噪音にしない日本人ならではの感性というのは、実はものすごい想像力にあふれているのではないか。余白を残すような謡いと虚飾のない囃子の音が、聞き手の想像の中に故郷のお山をありありと浮かばせる。作業唄、労作歌である曲も多く、無為自然に唄われた俚謡、民謡とはまさに民芸そのもの。

〽ヨーイサノ マッガーショ エーンヤコラマーガセ

凶作をもたらす山背風が吹いたあと、舟で荒瀬を下って行くのは父娘だろうか。はやり風邪など引かずに、達者でいろよ。涙を塩っ辛い大根の塩汁煮のせいにして、最上川は流れてゆく。

目を閉じて舟唄に聴き入ると、つられてしまう。染みるなぁ、寂しいなぁ。

長期戦だけならず、第二、第三波までを想像しての行動が求められる最中、しっかり送り出すことができず、余計に寂しくなるばかり。