友達がたまに来たのに

会社帰りのスポーツジムで、フィットネス前にストレッチ。大腿筋から三角筋までをゆっくり丁寧に伸ばす姿が鏡に映る。アラいやだ、俺ってなんだか、都会的——イヤホンの先で軽妙な音頭を取っていたのは、AMラジオ「民謡沼めぐり」でした・・・・・・。

まさかの第三回目が放送されていた、俚謡山脈の民謡沼めぐり。しかも今回は民謡界のレジェンド小沢千月が登場!大丈夫なのか、怒られないのかと、ちょっと本気でドキドキしながら放送を聴くも、のっけからビートアップした各地方の「餅つき唄」に高揚させられた。中でも出色だったのは、地元保存会が唄う「福原の餅つき唄」。

〽 友達が たまに来たのに 何もない

民謡では珍しい旋律と、絶望に始まる虚無感を与えた唄の衝撃が、鏡の中の私を襲った。

信濃追分から北国街道を進んで行くも、屈指の豪雪地帯に雪はなし。冬季は縮小営業している小林一茶の記念館だったが、埋もれているはずの資料棟にもほとんど雪はなかった。

若かりし頃は一般教養よりも、DISCHARGEやDISORDERやらのハードコアパンクの歴史と訴えを紐解くことに熱中しすぎていたため、いい年こいてから百人一首をアゲイン。「源氏見ざる歌詠みは」とか「謡は俳諧の源氏なり」と言うように、知らないから世界が狭かった。生涯に渡り旅を続けた歌人、西行法師を追いかけた芭蕉のようにとはちと大げさだが、まだ見ぬ吉野の桜を心に浮かべては、いにしえの人たちが目指した歌枕に思いを馳せる。

知るも知らぬも逢坂の関、高砂の松に田子の浦の富士。ちはやぶるのは龍田川だったか。多くの温泉地を駆け足で巡ってきてしまったことをもったいなく思うも、「秋の夜や 旅の男の 針仕事」西国を旅した一茶の句に和ませられた。俳句ならではの削ぎ落とされた言葉が、想像を連れてくる。うーむ、だからこんなに面白いのか。

 

〽 友達が たまに来たのに 何もない

なんともしがたい状況で絶望すら漂わせるのだが、友達が訪ねて来てくれた嬉しさの中で唄われた、民謡の五七五。何もない——、そうか!それゆえに愉快この上ないのだ。和歌の歌枕というのも想像で詠まれた場所であり、実際のことは特別問題ではないのだから。

新たな発見がある度に大きく心を動かされていく。ああ、年を取ったのだなと実感するも、楽しみはどんどん増えて「おらが春」を待っている。しかし、今年は本当に雪が少ないなあ。