ワイルドアゲイン、自由を取り戻す

億劫になり、なかなか片付けられない釣り道具。早くも立春を過ぎ、まだまだ先のこととしていたシーズンが、自らの禁断症状を伴って長い冬を越えてくる。尻を叩いて、ようやくリールの分解洗浄から始めるも、例年通りそれだけには止まらず、あれこれのカスタムパーツを作業台に忍ばせて、にやけているのだった。

こうしていると、魚釣りの楽しみは魚釣りだけにあらず、無限にも広がっていく。

特に寒い夜などは魚釣りの楽しみを優に超えるようにも思わせる、酷使されたオールド・アンバサダー・リールの分解と復権

少し前のクリーネストラインの記事に「問題は、アングラー(釣り人)が一匹の魚を釣っただけで満足できるかどうか」とあった。これはとても重要なことで、釣り人が何より先にできる「行動」であるように思う。

「ホー・リバーは愛されすぎているんだ」近郊湾やその他の漁場でスチールヘッドの釣りが禁止となり、釣り人が一河川に集中することによって魚の個体数は減少、そして2014年の推定で遡上魚は平均1.4回釣られているデータを残したという。State of Salmonのウェブサイトにも遡上魚の確認数ゼロという河川が多く見られ、北米の事情を深刻に伝えている。それでもどこか対岸の火事を見るようであり、毎年同じシーズンが来るとしてリールに油を注いでいるのであれば、それはまことに愚かである。

記事に触発されて書かれたであろう、日本のアンバサダーたちの内容が的を射ておらず、落胆するとともに、例えばどうして「石徹白川」の話をしないのだろうかと訝しむほどだった。

本州では自然繁殖が難しく漁協の放流に頼る虹鱒だが、辛辣な日本渓流の中で揉まれて野生魚のような鋭い鰭が育ち、見事に抗い命がけで釣り竿に反発する

早くから、魚の放流に頼らない健康な河川維持と野生遺伝子の保護を実践してきた漁協の取り組みを紹介し、日本のみならず実践できるモデルの一つとして広めるべきではないのか。そしてこの発端が、釣りが「スポーツではないこと」を知り、固有の文化と伝統を継承する「釣り人」だったということに焦点を合わせれば、もっと取り付きやすいはず。

娯楽である魚釣り、フィッシングに、魚とのフェアで対等な関係など築けるはずがない。だからこそ、尊び、守り、そして自らのために維持していく必要を迫られて発端となったのだろう。次なるそれは「流れを変える」こと。変えなければならないのは、水の流れと意識の流れの双方を指す。

上流域にダムや砂防堰などを造らずに、中下流域でも生物が往来できる圃(ほ)場整備、土羽護岸など自然に近い形での水路網を再整備することでよみがえる環境は、魚に自由を取り戻す。

田から水路を伝い、灌漑用水池や河川までを自由に往来できる里山の環境が多様な生物を育み、その中で日本の純淡水魚は人の営みとも密接しながら繁栄してきた。それを鑑みれば、山から川、途中で田を通したとしても海まで続く、循環可能な水の流れの重要性が見えてくる。断ち切れることのない水の中で、遺伝子の交配がより遠くまで可能になれば、魚は野生を取り戻すだけでなく、さらなる強さをまとうことができる。

かつての氾濫原、沖積平野に砂の城を築いた都市部では、防災の観点を改めるときがきている。自然環境を再考すればするほどに見えてくる、過ち。しかし、そこには偽りがあるから正せない。

日本の伝統釣法を紹介するブックには文化へのオマージュがあった。丁寧なランディングとリリースの方法を詳述する内容には技量だけでなく気概、スピリットが顕れている

バケツに入れられた鮭の稚魚が、子供たちにより川へ放たれる。微笑ましいばかりの過ちを、今まで疑いもしなかった。なぜ、人工ふ化放流が必要なのか——人口の増加や産業が発展した結果、水利用の需要が増え、それに伴いダムや堰が作られ、治水を目的とした大規模な河川改修が行われるなど、サケが自然繁殖できる環境が少なくなりました。

「そのため、人が手助けをしてふ化放流を行っています」(全国さけ・ます増殖振興会のHPより)

「語らざるものの声に耳を」地方紙に、渓流魚を撮影する写真家と対談する批評家の若松英輔氏の記事があった。魂の名著である「苦海浄土」を引いて氏は述べる。「われわれは自然から、返すことのできないものをもらっている。返せないのだから、せめて傷つけないことが求められるのに傷つけてしまう」環境問題に言及し、「危機の訴えに耳をふさいでしまう背景には、無力感があるのでは」と嘆く。「言葉たり得ないもの」は、語らないものが教えてくれる。私たちは語らざるものの声を聞くのが苦手。自然は語らない。だからこそ耳を向けなければと。

自由には一定の資格が必要で、自然の節度を守る責任がその資格となる。そんな自由の中でわきまえると、自然と見えてくる。一、即ち(すなわち)それは多であり、多は即ち一である。自然とも宇宙とも一瞬で繋がることのできるこの大きな言葉を前に、無力ではないことを強く思う。

どうしたら「魚釣り」は満足できるのか、それはほんとうに簡単なことだ。手段は決して「魚釣り」だけにあらず、様々な楽しみの要素を持っているのだから。

自らの意識を変えることは容易だが、他者が持つ認識を変えることは至難そのもの。現に疑われることのない過ちが川を堰き止め、偽りによって水の流れは強制されている。残念ながら、言葉たり得ない釣り人の未来はその中にしかいないが、川は本来、蛇行を繰り返して大海へたどり着く。そのことを、例えば人生と照らし合わせてみればどうだろうか。