四十年の挑戦

せいぜいあと——そう言われてから、きっと十数年は経っている。

毎年、立冬を過ぎた頃に母を連れて行く温泉旅行を功徳とし、孝行という名の挑戦であると実践しているのだが、はじめの頃はもう恥ずかしくってたまらなかったのをよく覚えている。電車や車の中で顔を突き合わせるなんてもってのほかで、隣を歩かれるのも照れ臭く、それなのに一方的に話し続ける(しゃべり倒してくる)母をあしらうのが本当に大変だった。

どうやら昔とはまるで事情の違う、いまどきの親子関係を羨ましく思ったかもしれないが、それでも十年を数える頃になるとさすがに慣れてきたように思い返す。さぁ、今年はどこへ行きたいのかと切り出すと、待ってましたと言わんばかりに四国、道後温泉に連れて行け——

松山は夏の初めにも訪れていた。年二回の道後温泉というのも大概で、なかなか大変(というか、ちょっと面倒臭い)。躊躇しているのを察してか、なんだったら四国四県、全部連れて行けと言い出した母をなんとかなだめた。「十年の汗を道後の温泉(ゆ)に洗へ」子規が後輩に贈った労いと祝いの句が、道後の湯釜に刻まれていたことを思い出した。

古事記にも登場する屈指の古湯、道後温泉。朝湯は宿の風呂ではなく、道後温泉本館での湯浴みに胸を躍らせて、朝六時に打ち鳴らされる刻太鼓(ときだいこ)を待つ。南国である愛媛の朝も半纏だけでは頼りなく、小刻みに体を揺らした列に並ぶと旅情は一層深まった。さっそく芋洗いの本館神の湯だったが、それでも道後の湯に浮かぶ楽しい芋の顔はどれも、特別な充実の中で洗われていた。

坊ちゃんカラクリ時計が動いているのをはじめて見た(なかなか楽しい)。坊ちゃん列車が上げた汽笛もはじめて聞いた(ちょっと乗りたいかも)。古湯を中心に広がる一大観光地の伊予松山だが、何より文学のまち、俳句のまち。子規記念博物館で二人、没頭する。

新しい文章への革新となった、正岡子規の写生文。書かれていることがそのまま目に見えてくる、分かりやすい文章の提唱が今に続いている。言葉で飾り立てる古今調の短歌を、もうそんなのダサいぜとでも言うように否定し、外国語まで積極的に取り込んで詠まれた歌や句は、柿食うと情景がありあり浮かんでくる、あの感じ。無駄がなく質朴でありながらも奥深い。

私という我を通さない写生に徹すれば、そのものの本来の魅力や美しさが見えてくる。だから伝わるし、面白い。つまりは私という自分以外が面白いのであって、それを見つけることができるのが写生であると。その中で見出された機知に富んだユーモアが起伏を作り出し、文面を躍動させる。なるほど、文章には山がなければつまらない。あらためて子規に感銘を受けた(今年二回目ね)

こんぴら船々 追手に帆かけて しゅらしゅしゅしゅ

車窓を流れてゆく四国の霊峰、石鎚山を(また)横目にして香川に入った。金刀比羅詣でよりも、日本近代洋画の祖である高橋由一館を目当てに、長い石段の参道を登る。油絵をまだ見たことのない明治の人々のために、食材や身近な生活用品などを題材にしたとされる作品もまた、徹底的な写生をもとに描かれていた。

七百八十五段の先にある御本社はもうすぐだ。一段が大きくなり、傾斜はますます急になった。手すりにつかまった腕を頼りに、体を引き上げるようにして一段一段、登って行く。民謡の一部を繰り返し口ずさみ、リズミカルに行こうと試みたが、何度も立ち止まっては汗を拭った。

女手一つで育ててくれた、母のたくましかった後ろ姿に、西日はもう長く影を伸ばさない。軽く背中に手を添えて支えると、随分小さくなったのをどうしようもなく感じた。こらえきれないから、顔を背けるしかなかった。どうした——? いや、照れ臭いんだよ。

石段を登りきると、眼下に広がる讃岐平野が一幅の絵画となって瀬戸内へと続いていた。上手く描こうや上手く伝えようとする隙を写生は与えず、涙を拭ったあとさえ見透かされる。慌てて、あの円錐の山はなんだろうと体の向きを変えた。

——なんだろうね、隣りに並んだ母が呟く。見渡せば、あれは瀬戸大橋だろうか。言葉にはならないときを二人で刻む。遠くに海は見えないが、波間に輝くような光が見えた。なんだろう——なんだろうね、夕飯は。

 

ついさっき、讃岐うどんに名物骨付鳥を平らげたばかりなのに。早くも、今晩の宿泊先である塩江温泉での夕食を楽しみにしている(死なねぇな、当分)。せいぜいあと、——四十年だ!と、本気で言いかねないから恐ろしい。

まぁ、嬉しいことに、挑戦はこの先もまだ(まだ)続きそうである。