絶滅への道は

絶滅への道は、善意で敷き詰められている——。釣り人として大変興味深く、そして聞き捨てならないその強いメッセージが込められたPatagoniaのフィルム「ARTIFISHAL」は、ARTIFICIAL(人造、人工的)にFISHをもじって題された。

孵化場からの放流は善意そのもののように思われたが、本来生息している野生魚を消滅させ、絶滅させるのだと警鐘する。放流魚との生存競争を強いられるだけでなく、交配によりその遺伝子が滅ぼされていく。放流魚との異種交配で、野生魚の生存率は一世代目だけで50パーセントも減少するというから驚いた。たくさんの魚が泳ぐ川、すなわちたくさん釣れる川が豊かであると信じて疑わなかったが、趣味娯楽を満足させるための事業は釣り人がほんとうに出会いたい、パワフルで野生に満ちた魚たちを窮地に追い込んでいたというわけだ。

食糧事情を担う養殖産業も、環境バランスを崩す大きな原因として考えられる。狭い囲い網の中で、より早く大きく育てるために投与された抗生物質や殺虫剤。それらが大量の糞や汚水とともに垂れ流されていくのは、想像に難くない。そもそも環境毎に生存できる個体数があり自然淘汰されていくが、養殖はその数を増やしていくばかり。安価で食卓にあがるサーモン、トラウトの実態が企業努力ではなくそこにあるのだとすれば、大量生産と大量消費のツケは傷だらけの魚を口に入れた者へ支払われることになるだろう。

元凶は一体何だ——?川から水とその流れを奪い取った開拓、水源開発、ダムであると映画は核心に迫る。魚の遡上を阻んだ代償として孵化場が存在し、助成金まで支払われている事実に言及する。太古より魚の遡上が連綿と続いてきた自然を壊し、壊すことに税金を使い、次は壊した自然を補填するために税金が注がれ、最大限の無駄で川をあふれさせた。

わが国においても同じようなことが繰り返されている。砂防ダムにより土砂が堰き止められると海岸は浸食され、それを食い止めるためのブロックを税金にて投入するばかりか、かつては川が運んできた資源を求めて平野部を掘り起こす始末。多額の税金を用いて整備された魚道も、粗末な管理により用を成さないものや、そもそも上流のダムに水流を奪われ機能していないものが非常に多くある。

嘉田由紀子前滋賀県知事により凍結されていた大戸川ダム建設がこの春、現職知事の突然の方針転換で建設推進の意向が示された。一体いつまで過ちを繰り返していくのだろうか。学者でも科学者でもなく、政治家でもない市井の私たちにはもう、どうすることもできないのか。

美作の名湯、湯原温泉の砂湯を思い出した。ダム直下にある混浴露天風呂が人気だが、この景観をどのように心にとどめるか

「自然との共生というウソ」著書は、人が住めなくなった土地の自然再生の話から始まる。渡良瀬遊水池はその名の通り天然の湿地ではなく、足尾銅山から流れ出た鉱毒の沈殿を図られた遊水池だが、後年は多様な生物や希少な植物であふれた自然環境を、高濃度で汚染された土壌の上に形成した。チェルノブイリも同じで、自然は驚くほど豊かな環境を取り戻したが、やはり「人の手が入らなくなった」汚染地域なのだ。人間は自然との共生はできない。だから「ウソ」となる。境界線を引くこと、それが唯一の自然との共生を模索する道であると私は理解した。

渓流域には、魚の種の保護を目的として設定された禁漁区がある。その中でも、作家を中心とした愛好家たちによって発起された永年禁漁が今も固く守られている川は、秋になると夢のような大魚が遡上する姿を間近に臨める。深い感動を覚えるとともに、釣るよりも遙かに価値のあることのように思わせるのだから、永年禁漁という強い意志と努力は同じ釣り人として誇りであった。しかし、この川にも盛んに放流が行われていることを疑問視できるようになると、下流のダム湖畔には釣り船があり、釣り宿があることが気になりだした。自然の再生力は先の通りなのだから、やはり禁漁区の境界線から先は手を入れないという保護があってこそ、ほんとうの野生魚が育まれるのではないだろうか。

近年頻発する豪雨災害の度に、治水ダムや砂防ダムの有効性が再議論されている。だが、やはり明らかな危険地域に人は住むべきではないし、下流域の人口密集部を守るためには土手を築けばいい。ダムより迅速に整備でき、安価で最も自然環境を崩さない方法だと思われる。開発はもう要らないというのは、食糧事情にも当てはまること。遡上してくる鮭を秋にいただくことが本来の恵みであるように、食材の旬を意識することで、養殖や畜産に依存した飽食の時代を見なすことはできないか。野菜一つよりもハンバーガーが安いことを疑い、ほんとうに美味しいものを少しだけいただく。生活習慣病を遠ざけ、健康で人間らしい暮らしを取り戻すことは、至極簡単なことのように思われるのだが。

 

川が好き、自然に感謝。節操なく釣り上げておいて、感謝だと?

最も川に近いと自負したはずの私たちが、我関せずで釣り竿を握ったままというのでは、ウソばっかりだ。問題は提起されている。変わらず守りたい自然と釣果のために、変わらなければならない。楽しい、それだけでは確実に終わりが待っているのだから。