記憶の通り戻すために

失われた「潟」をテーマにした絵画や詩、写真の展示会。潟の水辺で遊ぶ子供たちの写真は、前回のシンポジウムでも取り上げられた一枚だったが、あらためてパネルを前にして眼が離せなくなった。未来の潟を考える回のセミナーには都合が合わず、受講することはかなわなかったが、生きる力に溢れるたくましさ、本来備わっているはずの野性について大いに考えさせられた。

情操教育の一環として自然環境に触れさせる、そんなプログラム化したイマドキの教えを、彼らが聞いたらやはり笑い飛ばすだろう。勝手に学んで、勝手に強くなる背景には厳しい自然があり、その自然の中には大人たちの責任のなすりつけ合いを意味する「立入禁止」の看板などなかったはず。今よりずっと子供が多い時代、それゆえに悲しい事故も多かっただろうが、それもまた残された者たちへの大きな教えになったのではないか。

先日、有馬温泉からの帰路で湾岸線を関西空港まで走ったのだが、ベイエリアの高架道路に一切の自然景はなく、わずかに覗いた大阪の海も燻されたような鈍い色で淀む。人工物のその塊は首都高よりも窮屈で息が詰まり、強いめまいを覚えた。

誰もいない広大な潟の葦原で額の汗を拭えば、トンボが舞う初秋の空はどこまでも高く、あまりに清々しくて、しばらく釣り道具を投げ出して見上げていた。魚釣りに出掛けて、ようやく取り戻せたように感じるのだから、私の中にはまだ野性が残されている。そう自覚すると、時流や風潮、誰かの何かのせいにして、潟や水辺の環境問題が今の今までどこか人ごとであったことを強烈に非難した。それは、自分の堕落を社会のせいにして、社会が悪いから私は苦しいのだ——そんな言い訳をしているのと、なんら変わりない愚行であると。

展示会で流されていた回顧録が語る。干拓が完了する最後まで、泥の中でもがいていた魚は肺魚やドジョウと同じ性質を持つ、あの大型淡水魚だったという。せめてもの救いは、近隣住民が魚を拾って持ち帰り、食卓に上げたということだ。

もちろん、干拓地化したあとに減反政策や生産調整の未来が待っているとは夢にも思わなかっただろう。しかし、有り余る食料事情に放棄された耕作地は乾燥し、かつて水の底にあった土地が無残にも黄土をむき出しにしている。政治家は成長ありきの票読みしかできず、未来永劫を約束する金に釣られた有権者は、護岸された直線的な水路の流れに自らの姿さえ映らないことに気付かない。

こんなところで思いっきり魚釣りをしたい——。まったく健全な理由で、素晴らしい夢である。それが利己的でないことは、写真の子供たちが証明してくれているではないか。今、どう行動するべきなのか。干拓地を作れたのだから戻せるだろうと提唱する先人たちに、続け!

求めれば求めるほどに失われていくのを知った頃、ひび割れた大地の隙間から雑草の再生が始まる。