遠回りの川

わたしたちの家族では、宗教とフライフィッシングのあいだに、はっきりとした境界線はなかった——

ノーマン・マクリーンの名作「マクリーンの川」は始まる。真の意味でのフィッシングを知らない人間に魚を釣らせたりして、魚の名を汚すようなことは絶対許すべきではないという、牧師でありフィッシャーマンであった父の教えは、悠久の流れに泳ぐ魚とその自然世界の全体を尊ぶ。確かにフィッシングとは、自然への造詣を深めるとともに精神修行の場でもあるのだから、粗末な道具や礼節を欠いた服装などでの無作法は許されず、ロッド(釣り竿)を携えて森へ川へ入る際には、ハットを被りタイドアップした紳士のごとく、あるいは襟を正し帯を締め直した武士のそういった心構えを要される。

しかし昨今、あの山この沢では薪の炎が上がり、夜な夜な人間の奇声が木霊する。登山や沢登りの流行は結構だが、釣り人ではない人間が竿を握り、魚たちの水の領域に土足で踏み込んでは、まるで征したとでも言うように魚を弄び、淘汰であるとして喰らうのだから、まったく人間ってやつは。たとえば、信仰心の薄れとともに蔓延ったのが驕りだとすれば、それは自然に対して抱かねばならぬ畏怖を忘れた大きな過信であり、やはりフィッシングを知らないから人間は欲深くなるのだ。

釣り人として今、最も難しいことは何だと考えてみる。それは大きな魚を釣り上げることではなく、たくさんの魚を釣り上げることでもなければ、踏み荒らされた源流を目指すことでもない。一匹を最も尊ぶための出会い方を、真剣に再考することではないのか。

山を切り整備された道路網が全国を貫き、林道ですらアスファルトで固められ、蛇行して流れる川へ容易にアクセスする。マイカーでの車中泊がもはや当たり前となった今、昔日とは比べられないほどに魚との距離は大きく縮まった。だからあえて鉄道に乗り、そしてバスを乗り継いで魚に会いに行く。思いついたのは、尊い一匹と出会うための遠回りだった。

 

最も難しいアプローチは源流域などではなく、公共交通機関を利用した釣行だと言い切った私を、(ただ行きしなに酒を飲みたいだけではないのか)(鉄道や路線バスが好きなだけではないのか)釣友は疑うことなく、(自宅からウェーディングブーツを履いてやってきた私を)いぶかしむこともなかった。

フィッシング、それ以上に大切なことがあるとすれば、家族と信仰と友情であると、車窓に映り込んだ自身の楽しげな姿にあらためて思わされた。長い道のりも、車内で酒を酌み交わすことができるのだから、積もる話がどれだけ楽しいか知れない。晩夏の陽がもうすぐ秋の訪れを知らせようとしているのに、列車は時を忘れて走り抜けた。

駅に降り立つと、祭り囃子が私たちを出迎えた。夕暮れを前にして、踊り手は工芸品の模様をあしらった浴衣に身を包み、法被姿のいなせな女衆が祭りの始まりを待ち侘びていた。歳時を知らせる祭りで見せた夏女たちの情緒とは、過ぎ去るのを憂うのか、それとも秋の訪れにときめくのか。こうして祭りが始まる高揚を覗いてみると、夏祭りの主役が女性であることに初めて気付いた。

 

薄白い黄緑色に濁った湯治場の温泉は、温泉郷の中でも一際熱いことで知られていた。しかし、肌に刺激があるのは一時で、豊かな温泉の成分が体の隅々まで染み渡ると、やはり薄白い膜を作るようにしてその熱を和らげた。人は名湯を五感でつかむとあるように、湯の中で吐かれた深い安らぎの溜め息が何よりも語る。瞼の裏に今日の一日を浮かべた。

宿の自炊室で釣友が拵えた謎の料理 A.B.F.U。カナダのパンクバンドではなく、油麩という郷土料理らしい。そのまま唐揚げに、そして卵でとじてカツ丼風に。途中下車した街で購入した地酒はまだ若く、口から鼻を抜けて喉を滑るまで複雑に主張されたが、それを利きながらの酒談議、これがまた楽しい。観光列車に揺られ、地の物に舌鼓を打った。町並みの景観と温泉、祭りに民謡、土産の工芸品と、まだ釣りをしていないにも関わらず、胸が一杯になるほど思い返していた。

休日ダイヤのバスの一便は朝の早い時間の出発ではなく、やきもきする釣友を尻目にバスは高回転でエンジンを鳴らしゆっくりとギアを上げた。もはや観光客も乗らなくなったバスが旅情たっぷりに坂道を登って行く。釣りに心得があるという運転手が支流や細流のポイントについて話してくれたが、どれも停留所からは歩いて行けないという。もちろん、想定内のことだった。

バスを見送ると、いよいよここからは歩いて行くしかない。川幅の広い本流はその広大さゆえにポイントを絞りづらく、下るのが吉かそれとも上るのが吉か。どちらにせよ、ここからは歩いて行くしかない。川岸に乗り付けられていた車も多く、先行して川に入っていた釣り人を目視すると釣友は嘆いたが、それでも気を吐いた。

一本のロッドとライン(釣り糸)、それに結ばれた毛鉤(けばり)だけでリール(糸巻き)はない、テンカラという日本の伝統釣法。ルアーに違和感を覚え、フライを見切った本流の魚だとしても、テンカラなら異なるアプローチができるはず。底を取っていく餌釣りとも違うレンジで、浮かず沈まずの毛鉤が流れの中で「見せない」という誘いを魚にかける。

空を舞って風を切ったラインが、そのまま鋭く流れの芯に毛鉤を送り込んだ。僅かに淀みを見せていた、深い緑色の水の盛り上がりを目指して毛鉤は流れ下る。長くないラインが張られて毛鉤が不自然に流れぬよう、肘を伸ばして体ごとその流れに委ねた。簡素だが無駄がなく、そぎ落とせばそぎ落とすほど直線的な完成を見せるように、テンカラは一編の詩となって魚との出会いを物語る。

淀みの中で異なる銀が放たれ、翻った。一気に起こしたロッドが大きくしなり、ついに流れゆく一瞬の時をつかまえた。鱒はラインを引いてロッドを絞り、時の外へ消えて行こうと力の限り走る。どこまでも逆らおうとする鱒の強い意志とその全身全霊に根負けしそうになるが、だからといって負けるわけにはいかないのだ。取り込んで鉤を外し、水の中へ帰すことが釣り人の、フィッシャーマンの信仰であるのだから。

 

(やった!やった——!)

喜びの声を静かに漏らした二つの顔が水面に映って揺れていた。手の中にある一匹の銀鱗が真に尊く、フィッシングの喜びは魚の大きさにあらず、ましては絶対に数ではないことを証明している。旅に出てみるとたくさんの気付きがあり、見聞を広めると知が集まった。楽しみを多く知ることは、釣り方にも大きな影響をもたらすのではないか。

釣り人の間をすり抜けて、泡を食って逃げて行く——。そう思うと、遠回りなどしていないことに気付いた。