汝、釣り人につき

浄土山、雄山、別山という立山の三山はそれぞれ、捨て去った過去を、現在の姿を、そして未来の魂の在り方を表し、巡拝の登山は時空間をも越えて行く。立山曼荼羅が描く地獄の世界は美しきミクリガ池を血の池に、悠然たる剱岳の頂きを針山に見立て罪を戒めるが、ケーブルカーに高原バスを乗り継いで室堂平へ上がってくると、高山帯の多彩な自然景観が視界に広がっていた

今年も温泉ファンの釣り人が北アルプスへ、性懲りもなくフィッシングシャツを着てやってきた。

日本最高所で湧く温泉、みくりが池温泉を擁する立山は三千メートル峰の山岳修験道でありながら、様々な年代層が峰本社のある雄山山頂を目指す人気の山。急坂が始まる一ノ越で学生の登山遠足の列に捕まり、なんとも賑やかな登山となったが、山頂から連峰の最高峰である大汝山への縦走路に入ると、途端に静寂を取り戻した。

いにしえの登山道は急峻な岩場の連続で、切れ落ちた崖から恐る恐る見下ろせば、豊満に水を貯めた黒部湖が小さく覗く。そびえる後立山連峰を横目に、富士ノ折立からは谷を滑り落ちるように氷河の圏谷まで下ると、峰本社はもう遠い。真砂岳を経て、三山の最後となる別山への巡拝を終えた。

地獄の描かれた立山曼荼羅だったが、それでも雄山の頂から来迎する阿弥陀如来が描かれている。能の演目、善知鳥(うとう)では殺生を繰り返した報いとして、地獄に堕ちた猟師の霊が救済を求めて消えて行くが、振り返り、見つめ直し、改善するように努めれば、罪深き人間でも往生をとぐための本願は残されている。立山信仰は地獄と一緒に極楽浄土を見せることで、立山の厳しさと美しさをより際立たせたのだろう。

心地よい疲労感とともに思いがすっと軽くなるのを感じると、雲の中から特別な威厳を持った岩峰の塊、剱岳がその姿を現した。

 

剱沢野営場でテントの窓を全開にする。夕暮れどきに少し肌寒いが、絶景をあてに呑む酒は心の内を温める。

登攀道具の数々を明日の登頂に向けて広げていた屈強なクライマーたちなどは、特にこの景観に酔っているようで、八ツ峰という名も聞こえてきたから驚いた。YOUは明日登るのかと、フィッシングシャツに向けて問うてきたが、どうして登れようか。I’m a フィッシャー、釣り人だぞと。

夕方の気象通報がラジオの電波を伝ってくると、どよめきが落胆に変わった。発生した台風の影響で、明日は午後から大荒れとなり、まとまった雨が降るという。クライマーたちの嘆きの声が剱岳を仰ぐ中、明らかに違う反応をした釣り人が一人。

雨が降る——。

まとまった、雨が降る。水が動けば、魚は動く——!

朝日に照らされた剱岳を背にして、雷鳥坂の長い坂道を走って下る。室堂平まではまだ遠い。急げ、もうすぐ雨が降る!

「止まって!ライチョウがいるの」

突然、呼び止められては、そのライ、雷の発音に激しく反応し、そして動揺を隠せなかった釣り人の脇で、雷鳥の親子がひょっこり、ハイマツの茂みから頭を出していた。ああ!カワイイ!

カワイイが急げ、釣り人よ——!