トラディショナルな世界へ

昼過ぎに仕事を終えて周辺を散策していると、女子アナウンサーにすれ違った。なんだか得した気分になり、そのままNHKの方に歩いて行くと懐かしいレコード店が見えてきた。エレベーターの扉が閉まる直前で駆け込んできた、背の高い男性の顔を横目にしてすぐに気付くも、声を掛けるどころか隠れるようにうつむいて、一番近い階のボタンを何度も押し続けてしまった。だって俺、「民謡」ばっかり聴いているし——

ライブをやらないかと誘われたのは、随分昔にやっていたバンドの方だった。なによりも嬉しかったのは、懐かしい友人からの便り。そもそも、あれだけ良くしていただいた諸兄姉たちと疎遠になってしまったことを悔いれば、便りは心から嬉しかった。あの頃のように楽器を握って、声高らかに謳歌したい。けれど、ここ最近は「能楽」に——

幽玄な世界に引きずり込まれるように能楽堂へ。うごめきだした日本人としての何かが、トラディショナルな世界へと誘っては離してくれないようで。

能狂言の写真はなかなか撮れないので、写真は神楽

目で見るのが一番簡単で、音で聞くのはその次に分かりやすい。書いて伝えるのが一番難しいのなら、読みも同様で、読み手にも読解力と想像力が必要。分からないからと文章のせいにして、カビの温床になっている本棚の中でも、古典は輪を掛けて難しい。当然、分からないからつまらない。それなのに観て聴く文学である「能狂言」を通して理解すると、古典の物語はこんなにも面白かったのかと。

亡霊や神などが主人公となる曲が多い能。能面を付けて現れたシテ(主人公)の立ち振る舞いは、「ああ、あれは神だ」とすっかり腑に落ちてしまう。迫力のある能楽師たちの言葉にはまるで死者の魂が宿ったようで、囃子方の笛鼓が奏でる音色につられて世界を一変させると、地謡(コーラス)の低い歌声は呪文あるいは読経のようにすっと心へ入り込んでくる。

そして、能を観た後は不思議なことに、さっぱりするというか何というか。死者の魂を発露させ、その魂を鎮める「鎮魂」の意味が込められている能には、再生への鍵も隠されているということなのだろうか。日本の芸能とは、なるほど奥が深い。

世阿弥が晩年に流された地であり、現在も多くの能舞台が残り盛んで知られる島ばかりか、黒川能が伝わる土地もある。能楽にとてもゆかりの深い郷里を持つ者として、もっと早くに気付いておくべきだった。