共進化した沼の主

市が運営する環境研究所のシンポジウム、基調講演は前滋賀県知事にナショナルトラスト協会。毎朝の風景だとスクリーンに映し出された自宅裏の琵琶湖湖畔の写真を指して、この水で歯を磨き、顔を洗い、そして一杯の水をそのまま頂くというから驚いた。学芸員から県知事に至るまでの経緯は水から始まる環境のあり方を考え行動すべく始まり、ついにはダム開発の中止、凍結を実現。河川から直接引かれて使い回す循環する水を「近い水」と称し、ダムから始まる上下水道の使い捨ての水利を「遠い水」として、どちらがほんとうの豊かさであるかを問われてみれば、火を見るよりも明らかだった。

洪水することを前提とした改修などをしない自然河川に対して、堤防堰を乱立しては景観を損ね、挙げ句の果てに谷間をまるごと水に沈めたダム湖建設は魚の遡上すら認めない鉄壁の守りを築く。だが、洪水による実際の被害範囲や被害額などはコンクリートの治水対策が十回の洪水で九回被害を防いだとしても、一回の洪水が自然河川での十回の被害を上回るデータが多くあるという。だったら最初から抗わず、莫大な建設費は災害時の補修などに充てた方がよほど経済的ではないか。流域の住民を守ると代議士に意気込まれてもあまりピンと来ないのは、豊かな恩恵を受けるために流域の住民は河川の近くで営んでいるのでは?(当然、災害への覚悟を持っているものだと)山間部もまったく同じことで、そんなに危ないと思うなら住むのやめなよ〜と私は思う。

別冊本にて引用したことがあるのだが、スコッチウイスキーのふるさと、スペイサイドはスペイ川の水で大麦が育ち、ウイスキーが蒸留されるだけでなく、大西洋鮭が遡上するフライフィッシングの聖地。急流を持つ大河だが、護岸されておらず決まって洪水する。しかし、洪水することで川が運んでくる山の養分を大地はたっぷりと取り入れることができるのだ。豊かな土壌が自然サイクルによって生み出されるのだから、化学肥料で汚染されることもない。言わずもがな、鮭の遡上は繰り返される。

生水の郷として知られる滋賀県の針江もまた、琵琶湖に戻る水だったことを思い出した。自噴する湧き水を敷地内に取り込み飲料水から炊事までを賄う、川端(かばた)と呼ばれる水路システム。食器は洗剤を使わずに川端で洗い、鍋底に付いた米粒や食べかすなどは放たれた鯉の餌となって浄化される。上流下流を自由に行き来できる水路は魚であふれ、子供たちを水辺に誘い出しては遊び場となり教室となる。水はバイカモに花を咲かせて琵琶湖へ戻るというのだから、無駄なく完成された水の循環とは今にして計り知れないほど豊かだ。

「よい子は川で遊ばない」立て看板に反発したディスカッションは笑いに包まれて盛り上がった。「昔は良かった」もはや笑ってばかりは居られず、警鐘のように受け取る必要があるのかもしれない。子供のうちに感性が育まれないと、目に見えるものしか信じられなくなると思うからだ。遊び場を持たない矢板護岸の河川は真っ直ぐに流れ、浅瀬がないから魚の姿も見られない。その貧しさを誰よりも知るのは釣り人ではないだろうか。

すぐに満員札止めになった会場。水辺の環境に関心を持つ人が多く、その意識が高いのはやはり土地柄だろう

なくなった湖沼の姿を取り戻そうとする再生事業に疑問を抱いていた。耕作を放棄された干拓地は荒れ果ててはいるが、それもまた再生した自然。人が手を入れなくなった自然の再生力は強く、あっという間に藪が辺り一面を飲み込むと川は浸食により流れを複雑に変え、生き物たちを呼び戻した。激しい藪を漕いで漕いで、ようやくたどり着いた水辺で出会えた魚は心震える大物だった。雄叫びのような歓喜を上げても誰にも聞こえない藪の中。この時、自然の中にいることを深く感じ、これこそがほんとうの自然ではないかと思わせた。自然との共生を見出すどころか、利己的にあるいは政治的な要素をたっぷりと含ませた再生というのではあまりに勝手だろうと。

しかし、新たな価値観を与えるグリーンインフラの整備には多くの利点があると講演は続く。農業地用に干拓された土地を湿地に戻すことで環境は景観を取り戻すだけでなく防災機能を高め、豊かな緑地が観光資源にもなり地価を上げるという。確かに、身近になった森や水辺などは自然に対する意識を変えるきっかけになるかもしれない。

昨今よく耳にするフェアトレードは対人間にだけでなく、大量生産と大量消費を見直すことで綿花栽培における深刻な土壌汚染にも待ったをかける。正当な対価を生むことができる事業とは文字通り、正当なのではないか——。全体の幸福なしにほんとうの幸いなどないのだから、人間の管理下での自然環境だとしても、現在の社会生活の中ではもっとも豊かに近いと言えるだろう。

いつの間にか工事が始まっていた近くの湖も、実はナショナルトラスト協会が土地を買い上げていたのだ。再生事業が始まると案の定、釣り人は締め出されたが、それまでの湖は不法投棄のゴミが山積みにされて水は濁り、悪臭を放つばかりではなく、ゴミの中に産み落とされた野良猫の子供が悲鳴を上げていたほどだった。目を覆いたくなるような現実を前にして何一つ対処することができず、いつかは埋め立てられて行く結末しか見出せなかった。そこに光りを当てたのは協会が推進する再生事業。近い将来、また釣りを楽しむことができるかもしれないと思うと恥ずかしくなった。

今回のシンポジウムではあまり魚類について専門的な話はなかったが、配られた冊子には私たちが愛して止まないあのヘビのような魚の記述もあった。外来種だからどうのではなく理解は更に深められ、共進化して環境に溶け込んだ魚類と記されていた。沼の主として想像力豊かに観察された記事もあり、食材としての利用価値も改められ(もちろん食べてもらうのは困るのだが)、一つの命として正当に扱われていたことに安堵した。その独特な風貌から悪者のように扱われては要らないものとして、陸に上げられたこともあった時代を振り返ると、汚染された意識も環境も随分と改善されてきたのだと実感した。

ヒツジグサとスイレンを見分けられないのを、果たして釣り人と呼べるのだろうか。魚は好きだが水辺のことはどうでもいいと言わんばかりに、外来魚の「釣り目的による人為的な移動」の話が未だに聞こえてくる。釣れるだけ釣り、楽しむだけ楽しんだら用はないと身勝手に立ち去るのならば、水辺から締め出されて当然だろう。環境開発に物言える知識、保全団体などと連携して協力できる力はどうしたら得られるのだろうか。釣り人として自然環境に循環できるような道を模索しなければならないと思うのだ。