樹氷原に埋まる修羅

ほんとうにおれが見えるのか—— 助けを呼ぶ声もいよいよ細くなり、吹雪がかすんで見えた頃、人の形のものがぼんやり私の前に現れて、夢幻の雪壁を震わせている。

天上との境目が分からなくなるほどに白く煙った冬の山で見失うと、不思議なことに、別の世界の様子が見えてくるのだろうか。まもなく胴は埋まり、石仏のように重たく固まった肩に積もる雪はあまりに冷たく、無情にも思えたが、寂しさと哀しさをまるごと埋めるには丁度いいのかもしれない。次なる別天地で私は人の温もりを、優しさを、失わずにいられたらと静かに祈り、胸の前で手を合わせて呟いた。

すると雪壁を叩く者あり。それは蓑をまとった農夫か、いや、ヤッケを被った登山者だ——

奥羽本線を山形で降りると、蔵王温泉へ向かう駅前のバスステーションは長い列を作っていた。スキー客で賑わう冬の蔵王は外国人観光客も多く、歴史ある温泉街を国際色豊かにしていたが、緩い坂道が折れ曲がり繋がっていく古い路地で道に迷ったのだろう。不意にゲレンデまでの道のりを英語で訪ねられて困った。最近、英語を勉強中だという旧友が横から得意げな顔を挟んでくるや「ダウン!」とだけ発してゲレンデの方角を指さした。

スノーモンスターの愛称で知られる樹氷の雪原を抜けて、蔵王連峰の最高峰、熊野岳から刈田岳を縦走。麓のスキー場へ下りてくることで、最上高湯の蔵王温泉から奥州三楽郷のかみのやま温泉までを繋ぐ。冬の縦走温泉登山の旅は快適なロープウェーを乗り継いで始まった。

山頂駅の扉が開かれると、途端に今までの快適は真っ青の中へ奪われた。まるで怒っているかのように吐き出された地蔵山の息吹が、手足を縛るまでもなく心の先までを一気に突き刺して行く。言葉を発することさえ許さないという厳しさを持って雪山は、あの、樹氷群を山腹に従えていたのだった。

スキーヤーは山の状態をよく知っているのか、山頂駅では姿をあまり見せず、どこか気楽な雪上トレッキングを匂わせたままで上がってきてしまった登山客たちが立ちすくむ。数歩先も見通せない気候条件を前にして、どのパーティーも逡巡としながら身支度を整えていた。

誰かの勇敢な一歩が踏み出されると、誰もが遅れてなるものかと連なった。百足の行進は限りなく明るい闇を進んで行ったが、見えるもののすべてが白く煙るのだからすぐにルートは失われ、自らを見失う。

「ロスト!」立ち止まってしまった列の中から発せられた言葉が樹氷原にこだました。命あるまま凍りついた樹木は人の声や物音を吸収するのではなく、反響し、亡霊のように増幅を繰り返す。「ロスト!ロスト!」何度も発せられる戒めのような言葉は一体、どの列の誰から放たれているのかとざわめき、その声に聞き覚えのある私以外の誰もが顔を見合わせて飲み込まれていった。

多くの者たちが畏れを自覚して列を離れると山頂駅へ引き返した。無謀にも進もうとする中には電子機器を取り出し、自らの位置を銀河へ向けて反射させようと試みる者さえあったが、たかが人間ごときの文明と、山はたしなめるようにして息を吹きかけた。

自らを過信して高らかに唄い行けば、見失うに少しも時を要さなかった。歩いている方向が分からなくなれば、自ずと目指す先も分からなくなる。すぐ後ろにいたはずの人の気配はなくなり、声も届かないことに焦りが募り出せば、私はもうすべてを見失っていたのだ。

大切なことはいつも失って初めて気がつく。満ち足りていた時にはそれを軽んじ、無意識に寄せられたほんとうの優しささえも見失っていたことに気がついた。天上との境目が分からなくなるほどに吹雪かれた今、次の一歩は天山へと登る道なのか。絶望に涙が浮かぶほどの体温はもう残されていないのだろう。とめどなく落とされた乾いた雪の塊がまもなく胴を埋め、寂しさの上に積まれていく。

助けを呼ぶのを諦めたとき、闇をつんざくような声が私に被さった雪壁を叩いた。ぼんやり焦点が定まってくると、蓑かそれとも合羽を被った人なのか。下りてこいとでも言うように声を震わせ呼んでいるが、哀しみの中に一人埋まるおれが見えるのか。

ほんとうにおれが見えるのか——。

農夫が声を張り上げ、下りてこいと私を揺さぶっている。そして、今すぐに山を下りろと言っている。

 

「ダウン!」

 

・・・・・・ねぇだから、ほんとうに英語の勉強してます?

青空の下で樹氷原を歩くことは叶わなかったが、諦観するようにして冬の山に埋まる石仏を前に、物は言わぬが大いに語らう自然を聞きとめることが出来たのではないだろうか。

 

上湯に川原湯と、蔵王温泉の共同湯を巡り、結局はバスと鉄道を乗り継いで訪れた、かみのやま温泉の下大湯をはしご湯。最上屈指の名湯にのぼせてダウン!したのは言うまでもないか。