主稜線のスイッチバック

雨が強くなってきて、屋根を叩く音に寝返りを打った。長い登山道を歩いてきて疲労困憊のはずだが、寝付けない。雨が止むのを望んでいたのではなく、このまま降り続いてくれ—— 私は布団の中で体を小さく丸めて、祈るようにそう思っていた。

福島と山形の県境に沿って連なる奥羽山脈の吾妻連峰は、名湯秘湯があちこちに湧き出している温泉天国。涼しい風を追い風にして温泉をめぐる、縦走登山の旅を思いついた。茅葺き宿舎の微温湯温泉から浄土平に入り、一切経山と家形山を経由して姥湯温泉に下る。自炊棟のある滑川温泉に宿り、翌日に登り返して西吾妻山へ。そして若女平に向かって一気に下り、米沢屈指の名湯白布温泉を目指すという温泉トレイル。われながらよくできた山行だったが、天候不良の予報に伴いスタート地点を変更して高湯温泉から登山道に入った。

五色沼まではハイキング程度だったが、縦走路は深い森の中へと続いていた

家形山を下り山形県へ入ると急に森が深くなった。胸の高さまで伸びた笹藪の中を泳ぐようにして進むも、陽の当たらない道に足もとはぬかるみ、上から下からまとわりつかれた。鬱蒼と茂る森の中で展望は利かず、進めど縦走路は終わりを見せてくれない。溺れる寸前にたどり着いた分岐からは一転して、むき出しの大岩が積み重なっていた。

岩をよじ登ると展望こそ開けたが、東から来た道を振り返るばかりで、西吾妻の山はまだ見えない。なのに温泉を目当てにして一旦下る私たちとは、そもそもおかしいのか——。どうして遠ざかっていくゴールに閉口せざるを得ないのを、よくできた旅などと一体どの口が言ったのだろう。永遠と下る急坂に疲弊し、最後は長い梯子を尻から滑り落ちてようやく到着した姥湯温泉で、私はとうに気力を失いかけていた。

課金式のガス台が湯治場の趣き。料理長お手製のご当地グルメは謎の鍋、ZAKUZAKU。会津の名物らしいがここは米沢・・・

宿泊は更に一時間ほど下った先にある滑川温泉。小川が滝となっている高台に建てられた温泉宿は、自炊棟を有する湯治場然とした東北の雰囲気で、ダイナミックな景観の姥湯温泉とはまた違う趣きがあった。四季折々を伝える自然の中にあって、主張しすぎないほどに香る湯がなんとも奥深い。登山の後はアイシングがなんとかと健脚者たちは言うけれど、命からがら、まさに転がりながら下りてきた温泉ファンには何より熱い湯だ。本当によく骨身に染み入る、嫌になるほどに。

下ったからには登り返すしか道はなかったが、正直考えたくもない——

かつてスイッチバックが行われていた駅のホームで、名物力餅を呼び上げる売り子の声が旅情をかきたてる

翌朝になっても降り続いていた雨に胸を撫で下ろした。下山して、鉄道で白布温泉へ向かうエスケープの行程に入る。最初は曇っていた友の顔も次第に晴れていった。

姥湯、滑川温泉の最寄りである峠駅は、駅舎の全体がスノーシェルターで覆われた鉄道ファン憧れの駅。山形新幹線の開業まで、連峰の分水嶺をスイッチバックで越えていたという。往事の面影をそのままに、列車の停車時間に合わせて名物「峠の力餅」が販売されていた。

米沢牛(ホントか?!)食べ放題という焼肉民宿はニュージャンル。温泉は「もらい湯」に行くというスタイルも未体験の新しさ

高湯温泉、蔵王温泉とともに奥羽三高湯として歴史のある白布温泉。宿泊先は名宿の東屋でなければ西屋でもない。すると中屋かと温泉街の酒屋で訪ねられて隣りの民宿だと答えると、「ぇええ!」のけ反って驚かれた。地酒の奥羽自慢は切らしているとのことで、棚の片隅で眠っていた山形正宗を選んで会計を頼むと、店主はおもむろに冷蔵庫の物と取り替えた。「古かったので新しい方をどうぞ」いや、その古い常温の一升瓶がいいのだと注文をつけると、「ぇええ!」また同じようにのけ反った。

民宿の洗面所に貼られていた登山地図は、四隅が切れて酷く痛んでいた。色褪せていたが、はっきりと山頂を記していたそれからも目を逸らすと、山は目の前にありながら遠ざかっていく——。疲労は癒えずと固くなった太ももをさすっても、言い訳ばかりが募った。観光客のように振る舞ってみても、空笑いに他ならなかった。明日は帰途につく。下ばかりを向いている自分に気がついていた。

若女平登山口から登り、山頂を経由して新高湯温泉まではコースタイムで7時間ほど。行ける!

洗面所の蛇口から滴り落ちる水音に寝返りを打った。静かな夜に自らと向き合えば、見えてきたものは昨晩と違っていた。

電球を灯すとおぼろげに浮き上がってきた登山地図。ルートを指でなぞる。白布温泉から新高湯温泉までは徒歩30分。直登ルートである若女平登山口から山頂を経由して天元台へと下れば、新高湯温泉までおよそ7時間。

——行ける!

温泉から温泉へ。無駄なトレイル、登山行!起きろ、いつまで寝ているんだ!

山頂下の吾妻神社から見上げる。霧の中にも隠れきれない山に登ってきた

若女平で追い越したのは一組だけだったが、山頂は多くの登山客で賑わっていた。雨は止んでいたが曇天は変わらず、主峰はやはり霧の中。それでもつづら折りの主稜線を登ってくる人々の姿に、分水嶺を越えて行くスイッチバックの姿が重なって見えた。

切り返し、繰り返しで少しずつ、かつ力強く。見上げた先を目指して登ってくる——。

 

新高湯温泉は絶景露天風呂を売りにしていたが、どうして一番小さい湯船を選ぶ。根本的に何かがおかしいんですねきっと