奥鬼怒温泉の野犬

奥鬼怒温泉へと続く渓流沿いの遊歩道は、いきなり勾配を急にして、本格的な登山道を期待させるも、すぐに平坦な道へと戻る。初夏の渓の爽やかな風が森を抜けていったが、太公望たちが垂らした釣り糸に、強く後ろ髪を引かれていた。釣り竿は持たずに、手拭いとおにぎりを持ってきた自らを少しだけ呪った。遠い東北の名湯を彷彿させるような、極上のにごり湯を持つ関東の温泉天国。日光鬼怒川、那須塩原の温泉郷には、毎年決まってこの季節に訪れている。

渓流沿いの遊歩道を歩くこと一時間半。森を抜けると奥鬼怒の温泉が見えてくる

女夫淵からは徒歩になる奥鬼怒温泉郷。今年は日光澤温泉を目指してみたが、途中で行き先を変更。日光澤はやっぱり、尾瀬旅の終着点にしたかった。

尾瀬へは上越線で浦佐駅、路線バスで銀山湖、そして遊覧船で尾瀬口に向かう。燧ヶ岳を登ってから、いよいよ尾瀬沼に入る。尾瀬沼ではキャンプ泊がいい。翌日は鬼怒沼を目指して歩き、日光澤温泉に宿泊。帰りは会津鬼怒川線でという、飛行機以外すべての交通機関を網羅する行程。あぁ、完璧すぎるじゃないか。

やっぱり、日光澤温泉はそのときまで取っておこうと、結局は加仁湯で立ち寄り入浴。土曜日だったが、混浴露天風呂も貸し切りで、眩しいほどの乳白色の湯を心ゆくまで楽しめた。

加仁湯は夏になると、大関に昇進した栃ノ心の春日野部屋も合宿にやってくる名旅館

帰路の遊歩道で持参したおにぎりを食べていると、どこからともなく犬が一匹、音もなく現れた。薄汚れていたが大人しい犬で、首輪はない。野犬なのかもしれない。その目はどこか哀しかった。

「ひとり?食べる?」

おにぎりをちぎって渡すと、静かに食べた。長い舌で一度、口元を舐め回してから見上げた顔は、まだ哀しい。もう少しちぎって渡すと、また食べた。何かを言いたげなその目で訴えられて、結局は全部取られてしまった。

ザックを掴んで立ち上がると、犬はわずかに鳴き声を漏らした。一歩、二歩と遠ざかる背中に、今度ははっきりと鳴き声を聞いた。

もし付いてきていたら、連れて帰るかと振り返るも、アイツ——っ。

元湯温泉大出館。名物は墨の湯だが、緑がかった白色の湯も美しい。これで墨の湯と同じ泉質だというから面白い

塩原元湯温泉は去年も泊まった?あれ、去年は新湯温泉、それとも日光湯元温泉だったか——?もう、なんだかよく分からなくなるほどの温泉天国。それでも湯の個性は、しっかり体が憶えていると言い張ってみる。