横恋慕連峰、那須

どっどど どどうど どどう。強い風が雪を従えて、テントに吊された乏しい灯りを揺さぶり嘲笑う。それはまるで、この山にも風の又三郎が住まうというように——

数年ぶりに訪れた那須連峰の三斗小屋温泉で、山中は季節外れの吹雪に見舞われていた。湿原から峠を越えて行くルートはさほど時間を要さない予定だったが、道中で色々とあり、夕闇迫る中でテントの設営を強いられた。この時すでに極端に口数は減り、亀裂の生じていた男たちをそのまま見逃すほど山の風は甘くない。もっとやれと囃し立てるように、びゅうびゅう音を立てて焚き付けた。激しく揺さぶられたテントの中で胸ぐらをつかみ合うほどの理由とは、やはり「女」のことをおいて他になかった。

理性には限界があるのだと知る者が理性的な人間であると、何かの本にあったのだが、果たしてほんとうだろうか。

ギャンブルはゲーム感覚で陥れ、渦巻く欲望は夜ごと不貞に溺れていくが、金色の悪趣味とはまったくつまらない趣味であるのだから、理性で抑えることなど簡単にできるではないか。音楽に燃やした青春だったが、愛を売る言葉とそれに興奮する奴らに向けられたポップソングに中指を立てれば、セックスやドラッグ、ロックンロールに溺れることはなかった。自己確立に必要だった信念は、古くさい言い方かもしれないがやはり硬派にあった。

青年期がもうすぐ終わる頃、私は彼を魚釣りに誘い、彼は私を山登りに誘った。どうせだったらテントを持って行こう。釣った魚を逃がしてしまうのは釣り人だからしょうがないけれど、畑で作った野菜を山の上で食べよう。湧き出る山のいで湯に躍動する大地を感じ、山頂に吹き上げてくる風を爽やかに浴びれば、また一つ人間らしい感動を覚えた。

担ぎ上げてきた一升瓶を挟み、男同士でその感動を語らえば、人間の理性はつまらない欲望などに負けないと確信を持てたのだ。

晩秋の頃の朝日岳から連峰の主峰茶臼岳の噴火口を望む

湿原から峠を越えて行くルートの湿原で、早くも道に迷ったのだという一行に尋ねられた。登山地図を広げているのが母親だとすれば、娘たちは年の近い姉妹だろうか。箸が転んでもおかしいようで、強い風に帽子を飛ばされては笑い声を上げていた。これから天気が崩れるから道に迷わないようにと助言したが、聞いたか聞いていないかの生返事のあとは「ついてきま〜す」。気楽なもので呆れさせたが、その人懐っこい笑顔は双方愛らしく、嫌な気持ちにはさせなかった。

湿原を抜けて急坂を下ると、かつての会津中街道に出た。広く平坦な宿場跡地に石灯籠が立ち並んでいたが、人煙はなく、墓碑や石仏だけが静かに登山客を見送っていた。寂しさを引きずるような古の街道でも、変わらず楽しそうな二人が声を揃えて呼び上げた。「ふーじー子、おそ〜い」息を切らしてようやく追いついたが、ふじ子はそのまま石灯籠の前に座り込んでしまった。ぜいぜいとあえぎながら、これが重いのだと取り出した小瓶のドリンク剤は、登山口まで利用したタクシーの運転手に貰ったものだという。思い出したかのように二人もそのドリンク剤を胸元に取り出して、にっこり笑って私たちに差し出した。

「おも〜い〜」

エスカップと書かれた小瓶のすぐ向こうで、揺れていた。ザックの胸のチェストベルトがどうして悪戯な位置でとめられており、その豊満な頂きを持ち上げるような恰好で艶めかしく、揺れているではないか——。主峰の茶臼岳から噴煙が上がると、連山の朝日岳は慌てて吹き消そうと風を吐き出したが、煽られた火種は最高峰の三本槍岳まで飛び火して、稜線の深い谷間を焦がしたのである。

思わずそのエフカップに手を掛けそうになったが、ちょっと待てと、テントに食料、一升瓶に釣り具までの重荷がのし掛かる肩にたしなめられた。これから始まる本格的な登山道は、三斗小屋温泉まで物資を運び上げる歩荷道だ。そんな小瓶を重いとは山をなめているにも程がある。まずもってけしからんと我を取り戻し、厳しく彼女たちを見返した。

「おも〜い〜♪」

ああ、カワイイ!

(理性には限界があるのだと知る者が理性的な人間である)

ドリンク剤を一気に飲み干し、その小瓶をザックのポケットの奥の奥にしまった。この先の分岐路だけを簡単に説明し、私たちはふじ子の回復を待つことなく、振り切るようにして先を急いだ。無心で進むと彼女たちの声はすぐに届かなくなったが、次第に強くなってきた風が何度も私たちを振り返らせた。

分岐路を過ぎ、那珂川の源流を知らせる橋を渡っても、彼女たちの声は聞こえてこなかった。「いくらなんでも遅すぎる」「道を間違えたんじゃないか」あらぬ不安がよぎった。いよいよ風に雪が交じりだした。慌てて川から上がってきた釣り人に話を聞くと、分岐を間違えた先は沢登りなどをする熟練者が行く、とても危ない道だという。

——嫌な熱さの感情を抑えきれなかった。湿原の辺りですでに迷っていたことを思えば、やはり置いて行くべきではなかったのだ。急ぎ、来た道を戻ったが、勢いを増した風は視界を遮るほどの雪を従えて、一気に辺りを覆ってしまった。どこだ、どこにいる——!

横殴りの吹雪の中、ヤッケの派手な色の一片がかすかに動くのを見つけた。いた!エフカップだ!大きく声を上げて手を振ると、気付いた!甲高い声が返ってきて、手を振り返している。

「やだーほんと神ぃ〜」

やはり嫌な熱さを抑えきれない。心配したんだぞ、ふざけるなよ!山鳴りのような怒りをぶつけるも、どうして彼女たちの人懐っこい笑顔は男たちの激情を受け流す。探しにきてくれたの?ねぇ、迎えにきてくれたの?と揺さぶるように翻弄しては、やっぱり揺れている!

「神ぃ〜♪」

ああ!カワイイ!山ガール、超カワイイ!

(理性には限界があるのだと知る者が理性的な人間である)

「あいつは色欲に溺れてる」「くだらないことに費やしてる」「ほんとうにつまらない奴だ」それに比べて俺たちはどうだ。俺たちは最高じゃないか——。かつてこの山で、この山の温泉で築き上げた男たちの理性は、音もなく闇の中に葬られた。私たちは悶々と、たわわな髪を巻き上げて見事な谷間をいで湯に沈める姿を妄想していたのだ。

強い風が西へ、やれ東へ西へ北へ北へと吹き荒れた。古の街道に鎮魂されたはずの声が闇夜を彷徨い、惑わすように囁く。彼の妻が年上だったことを思い起こせば、彼もまた姉の方を好んでいるに違いない——

「もう、たまらないよな!」

テントの中では謎の鍋、KENCHINが今にも吹きこぼれそうに鍋蓋を浮かしていた。この胸の高鳴りは一体何だというのだ。今頃になってドリンク剤が効いてきたとでもいうのか。欲望を打ち負かす、そんな健全なる楽しみが自然の中にはあって、それはとても高貴な理性であるかのように信じていたのに、あろうことか山ガールにうつつを抜かしている!

たまらないよなと求められた同意に心情を見透かされたようで、だから私は酷く苛立ち、不貞だ!まったく見損なったよと、声を荒げてまで理性にしがみついた。あってはならないのだ。一人の女を奪い合うために理性は葬られ、友情が枯れてしまうことなど、あってはならないのだ——

「もういい、うんざりだ」

彼はつかんだ胸ぐらを突き出すようにして離した。「俺は言うぞ、どっちか、はっきりさせてやる」やめろ、言うなよ。ふんっと吐き捨てるようにして気色ばんだ。「大体こういうのは言ったもん勝ちだ!」やめろ!言うな——!

「ふーじーこー!」

 

そっちかよ!

夜が明けると風は止み、目の覚めるような青空が山並みに続いていた。枯れることなく湯船を満たしていた山のいで湯に浸かり、冷えた体から感覚を取り戻した。万有を支配する者を知り得ないように、理性には限界がある。それを知る者こそが、やはり真の理性的な人間と呼べるのではないだろうか。

山ガール、超好き。