俺の寝袋はマイナス何度までイケる—— ヤマノ主任の道具自慢、そして意地の張り合いが事の発端だった。
冬にも対応する4シーズン用など持っているわけもなく、夏用テントの中で「寒くないんでしょ?」と嫌みを言ってやるつもりで出掛けたのだが、自らも同じように寒さに苦しめられることを完全に忘れていた(ちなみに私の寝袋はマイナス2℃がリミットだった・・・)。
信州安曇野の山麓は積雪こそ少ないが、吹き荒ぶ風に大地は凍てつき、吐く息も凍らせんとする極寒の地。北アルプスの名峰、燕岳の登山道入口に位置している中房温泉はすでに今季の営業を終えていたが、年末年始の期間だけ営業する山頂の山小屋に合わせて登山客を迎え入れている。テント場も同じように開かれていた。
中房温泉を目指して、冬期閉鎖された林道を歩くこと5時間あまり。ずしりと重たいザックの中身はテントだけではなく、一升瓶に豪勢な食材の荷。翌日に冬山の登頂を控えているとは思わせないそれに、ヤマノ主任の冷ややかな視線も気温と同じくらいに冷たかったが、これがなくては始まらない!何をしにきたと思ってんだ!
地酒は佐久の花、もちろん熱燗で。ヤマノ主任が作る恒例のご当地料理(?)は謎の鍋、MATSUMOTO。真冬のテント泊、それでもHOTなテント内は通気性抜群のフルメッシュ。
「——フルメッシュやんけ」
テント場で絶句するヤマノ主任の鼻水は凍っていたが、お互いの臓器まで凍ることはなかった。やはりキャンプは冬でも楽しい。いや、むしろ楽しいのかもしれない。
あれがマッキンリーか——
奇跡のように晴れ渡った翌日、雪の登山道を行く。第一ベンチから続いた急坂に閉口し、毎度のことながらチンタラ、そして限りなくイヤイヤで登る。いよいよ核心部、合戦尾根でストックからアックスに持ち替えた。結構な高度感に足はすくんだが、振り返れば富士の峰が同じ目線で開けていた。真横にそびえる槍ヶ岳はもちろんのこと、立山連峰や去年に登った八ヶ岳まで抜群の眺望だったが、どうして胸はそんなに高鳴らない——。
山小屋の安くない宿泊料金と、不味くはないがあまり面白くない食事も物足りない。同部屋に割り当てられた登山客は同郷の方で、魚釣りの話(マダコ釣り)で大いに盛り上がるも、山小屋オーナーの山の話には二人して船を漕ぐ始末。目的が違う——のか?
昨年に失敗した縦走登山を思い出していた。中継点にある避難小屋で宿らずに(多くの登山者はここで宿る)、温泉に入りたいがために一度登山道を外れるルートを取った。しかし、それが仇となり、翌日の天候不良により登山道に戻れなくなった。後悔する私をヤマノ主任は笑い飛ばした。「それでは普通の縦走登山だ」と。やだ、アンタもパンクね♪
やはり目的が違う、これだ——。
翌日は一転して、朝から猛吹雪。視界のきかない灰色の世界の中で、眉毛まで凍ると「冬山」の本当の恐怖に苛まれた。まさに転がり落ちるようにして、命からがら中房温泉まで下りてきた。二度と来るか、悲そう感をたっぷり滲ましていると、受付の従業員がこっそり本館へ案内してくれた。猫、猫好きを知るように、温泉宿も温泉好きを知るのかもしれない。
秘湯、中房温泉と言えばこの湯「御座の湯」。江戸末期に松本藩の殿様が入湯したことがその由来になっている。古色蒼然、板張りの湯殿に堂々と掛け流された山の湯は、まさに献上の湯に相応しい。本当にすばらしい湯でしたと、何度も先の従業員へ感謝を伝えた。「今度は夏に魚釣りで来ます」
それはそれは是非に、でもねと愛想のいい顔で続けた。「新穂高温泉から槍ヶ岳経由でも来られますよ」
——絶対に嫌だね。