魚釣りはもっと愉しくなる

夜半に訪れた救急外来の待合室には、想像していたよりもずっと重たい空気が流れていました。青い顔で診察を待つ患者の横で呼ばれると、なんだかとても申し訳ない気持ちに——。受付を兼務する若い看護師がその場で一度、確認すると言い出しました。ゎー、生きたままついてるの初めてみたー。

両手でシャツを上げて晩酌後のぽっこりお腹を披露すると、歓声を浴びたマダニは少し照れくさそうにして数回、足を動かしました。静かに重たい待合室の中で、思わず赤く染まった宿主に向けられたのは、凍るように冷たい視線でした。

当直に皮膚科の医師は不在ということで、外科医が担当するとのこと。専門ではないのでと嫌に繰り返しながらも、完全に興味本位の外科医の診察は軽くピンセットで突いたところから始まりました。

「ぉお!動いたぁあ!」 せ、センセ——?

何度か同じことを繰り返し、看護師と見合わせてキャッキャと「はじめてのマダニ」を楽しむその姿。訝しむと「ゴホンっ」と改めて、麻酔をして皮膚ごと切り取る施術を行うのだと医師は繕いました。でもその前にー、ガーゼに染み込ませたアルコールを近付けてみるとどうでしょう!と、またも興味本位が先行しました。

「ぉお!嫌がってます——!嫌がってます——!」 せ、センセ!

ものすごい早さで足を動かして嫌がるマダニを、完全に楽しむ救急外来。引きつったのは麻酔が効いてきたからではありません。この夏の渓流釣りの思い出が、少しだけ苦いものになりました。

 

魚釣りはもっと愉しくなる—— 釣果にばかりこだわっていると、釣りは途端に醍醐味を失っていくように思えてなりません。とくに美しき山や川、源流の森をフィールドとする日本の渓流釣りにおいては、その景観や悠久の流れに感動しないというのはもはや大損にも。そして、一匹に出会うための距離が長いほど、それだけでどこかロマンチックにも感じてしまいませんか?

釣り具は竿に釣り糸、それに結ばれた毛鉤だけと少ないですが、キャンプをするための道具類をザックに詰め込むと、胸はいつでも高鳴ります。山小屋に自炊の湯治宿なんかも楽しいし、土地の食材に名物料理とくれば当然、まだ知らぬ地酒を飲んでみたい。雨が降ったら観光して郷土史を学べばいい。土産も忘れずに買う。やっぱり、魚釣りはもっと愉しくなる。

 

アブの発生に悩まされる8月の渓流釣りは、より高い標高を求めて北アルプスへ。硫黄泉がそのまま流れる高瀬渓谷の秘境、湯俣温泉をベースに2泊3日のテント泊で挑む釣りの旅。地酒が2本もパッキングされたザックの重みが、行きの登山道で釣友ヤマメ先輩の肩をいじめ抜きました。

槍ヶ岳に続く稜線から豊かな水量を伴って流れる源流が湯俣の硫黄と交わり、大渓流となって渓谷を下ります。裏銀座ルートへつながる竹村新道は湯俣温泉から水晶岳、野口五郎岳へと登山者を導きますが、どちらの頂きもまだまだ遙か彼方にそびえているようで、山容はまったく望めません。絶対に登りたくないねと、珍しく意見の合致した山の夜は酔いのうちに深けていきました。

 

どういうわけか、銘渓の近くには名湯や秘湯が多い。平家の奥里に潜んだヤマメを釣りに行こうと湯西川温泉に川治温泉を巡りました。久慈川探訪を言い訳に訪れた湯岐温泉は、花崗岩の割れ目より自噴する湯がそのまま湯船を満たしていたとてもいい湯でした。

夕暮れを目前に諦めかけた鶴沼川からの贈り物には歓喜の声を上げましたが、つげ義春も愛した二岐温泉のオンボロ湯小屋で突然、宿りを乞いだすとヤマメ先輩は絶句しました。

広河原間欠泉に泡ノ湯温泉、朝日連峰や飯豊の山小屋にと、毎度ミステリーツアーよろしく連れ出される釣友の受難は計り知れませんが、旅支度をしてみると、やはりこの釣りの旅は友を誘うに値する—— 誘わないわけには参りません。

 

本流につながる合流点は小魚であふれており、豊に流れる渓相を予感させましたが、登っていくと次第に水流は弱まり、魚の影を落とす石や岩も少なくなりました。地図では見えなかった砂防堰堤が目の前に現れると、寸断された森と川は音までも失い、力なく痩せ細っていました。一縷の望みをかけて竿を出すも、破壊された環境からの返答はありません。

どこからともなく現れた山の神に、問われたような気がしました。どう向き合えばよいのかを知るためにも、もっと色々な土地で様々な川を見なければなりません。

 

堰堤により水の流れと魚のアタリを遮られてしまった。どうしてこんなものを作るのかと、子供のカモシカに問いかけられた。